小説

彼女の部屋にはブルーがない。

 バケツをひっくり返したみたいな大雨が降っている。ちょうど十年前のあの日と同じように、晴れた空から大粒の雨。
私は会社の窓から外を眺めながら、マコトのことを考えていた。今でも雨の日はいつもマコトとの日々を思い出す。雨の匂いを嗅ぐほどに、胸がキュウッと締め付けられる。
あんなに大切な日々は、もう二度と来ない。今でも、本当にそう思う。

 六歳の頃、私は福岡県の田舎町にある築三十年ほどのマンションに住んでいた。マンションというよりアパートという名前が似合う古びた建物。
 私が小学校へ入学する春、マコトが隣の部屋に引っ越してきた。
「よ、よ、よっ、よっ、よろしくお願い! し、し、しっ、ししししします!」 
 母親と手を繋いで、礼儀正しく挨拶をするマコトは、私よりだいぶ小さくみえた。細い腕に細い脚。背丈も私よりかなり低い。幼心に「この子は大丈夫かいな」と、思った。私の中のマコトの、最初の記憶。
 私もマコトにあわせて頭を下げた。肩まで伸びた髪の毛が、顔にかかって鬱陶しかった。

 母親同士の会話で、私とマコトが同い年だということはすぐにわかった。
 私にも、マコトにも、父親がいない。
 私には生まれたときから父親がいなかった。それが当たり前だと思っていた。
 けれどマコトは、六歳になるまで、親子三人で東京に住んでいたそうだ。両親の離婚がきっかけで、吃音が発症したらしかった。
「マコトちゃんに優しくしちゃってね。言葉がなかなか出ないときがあるらしかけど、ゆっくり聞いちゃるんよ」
 私は、吃音についてあまりよくわかっていなかった。けれど母の言葉通りにしようと思った。

 初めてマコトに会った日から、数日後、私たちは小学校に入学した。
 小学校への道のりや、アパートの前で、マコトとすれ違う。
 マコトはいつもオドオドしていて、私のほうを絶対に見ない。
 私は伺うようにマコトを見ていた。なんとなく話しかけるタイミングを失ったような感じだった。
 マコトの母親と、私の母親は、すれ違うときに挨拶をする。
 私も一緒になって頭をペコリと下げる。
 マコトの挨拶は最初だけで、それ以来何かを話すようなことはなかった。母親と一緒にいるときは、決まって母親の洋服をしっかりと掴んでいる。少しだけ後ろに下がって、潤んだ目でこちらを覗く。
 マコトは、いつまでもジッと見ていたくなる、大きな丸い目をしていた。今にも泣き出しそうな潤んだ目。

 数ヶ月ほど経った頃、マコトが急に話しかけてきた。
「り、り、りんちゃん! か、か、か、か、かてて!」
 アパートのすぐ隣の公園の砂場。
 マコトの初めてのかてて。
 いつも母親の後ろに隠れていたマコトが自分の意志を持って近づいてきたことに驚いた。母親に言われたのだろうか。
 私はできるだけゆっくりと喋った。
「よかよ。何して遊ぶ?」
 スローモーションのようにゆっくりとしたテンポだった。なぜだか自然と声が高くなった。
「り、り、り、り、りんっちゃんが! や、や、やっていること、お、お、お、お、教えて、ほ、ほしい! い、い、いつも! ま、ま、窓から、み、み、みみみていたっ、のっ!」
 言い終わるまで、二分ほどかかった。マコトの息は上がっていて、頬が赤く染まっている。肩が荒々しく上下に動いていた。
 私はジッとマコトの顔を見ていた。最初の文字から次の文字に繋がるまでの苦しそうな顔は、こちらまで息ができなくなりそうだった。壊れそうな宝物を見ているような気持ちだった。
「東京の子っち、本当にテレビみたいな喋り方をするんやね。うち、なんでかわからんけどお母さんにもえらいなまっとるっち言われるっちゃん。マコト、聞き取れんかもばい」
 私のぎこちない笑い声が宙に浮かんだ。
「おっ、おっ、お母さんが! り、りっ、りり、りりりんちゃんとっ! お、お、同じっ!」
 母親も福岡の言葉を使うということだろうか。
 マコトは呼吸を整えながら、潤んだ目でこちらを見ていた。
 公園には古びたゾウの形のすべり台がある。身体は水色なのになぜか鼻だけは赤色の奇妙なゾウ。赤色のペンキは、錆びてところどころがえんじ色になっていた。すべり台の下には、小さな砂場。
 私はえんじ色になったペンキの部分に砂をかけて、視界にきれいな赤色だけが残るように砂遊びをしていたところだった。先ほどの言葉をかき消すように、すべり台にかけていた砂を払う。
「このゾウ、錆びだらけなんよ。錆びの上に砂をかけよったと。そうすっと、きれいな赤色だけが残って、新品のゾウみたいに見えるっちゃん。きっとこのゾウ、最初はもっとかわいかったと思わん?」
 マコトは目を細めて、ニッと笑顔を作った。首を上下に大きく振って、頷いている。短い襟足が、ピヨンピヨンと揺れる。
 マコトの笑顔を見て、私はやっとホッとした。あたたかいミルクを飲んだときみたいだ、と思った。
「じゃ、最初っからやろうや」
 マコトはさらに大きく頷いた。

 それからは、毎日一緒。
 家も隣で、小学校のクラスも隣。私はいつも隣の部屋に遊びに行った。 学校の行き帰りはもちろん、放課後も。
 学校の先生たちは、私たちの関係を知っているからか、同じクラスには一度もなれなかった。それでいて、マコトがトラブルに遭うと、隣のクラスの先生に私が呼び出された。
「今日、国語の時間にマコトの吃音症を、笑ったやつがおってね。もちろん先生は怒ったっちゃけど、まだマコトは落ち込んどるかもしれんけん、りんちゃんがそれとなく話を聞いちゃらん?」
「マコト、泣いとったと?」
「顔を伏せとったけんわからんけど、多分ね。だけんりんちゃん、マコトのこと、守ってやってね」
 先生の言葉を聞いて、胸がキュッと締め付けられた。マコトが精一杯息をしながら喋っているところを思い出す。悲しみの後から、怒りが沸いてくる。
 次の日私は、マコトを笑った男子を呼び出して、強い口調で注意をした。
「あんた、次マコトのこと笑ったら、知らんよ。うちが絶対に許さんけん」
 相手の子がどんな反応をしていたかは覚えていない。私の手は震えていた。他人にこんなにも憤りを感じたのは、これが初めてだった。
 それから私は男子たちから「マコトのガーディアン」と呼ばれるようになった。
 けれどそんなことはどうでもよかった。私がマコトを守ると強く思っていたことは、事実だったから。

 小学二年生の夏休み。私たちは、ゾウのすべり台の公園の反対側にある裏山に登った。傾斜の強い山だが、スニーカーを履いていればかなり高くまで登れると気づいた。
「ここを、二人の秘密の場所にしようや」
 裏山の頂上付近にぽっかりと空いた場所を見つけて、私は言った。「秘密」は、小学校でも流行りの言葉だった。
 マコトが大きな目でパチパチと瞬きをする。
「い、いっ、いっ、いいねっ! ひっ、ひっ、ひっ、秘密!」
「秘密の場所には、秘密基地を建てよう! なわとびを切って、枝を繋ぎ合わせてからさ。使っとらんやつがあるけん、なわを切って結んでいくと」
「やっ、やっ、やっ、やややるっ‼」
 マコトは両手を握りしめて万歳をした。
 最初に、太くて長い枝を拾い集めて、一箇所にかためる。枯れ木ならば、折ってもいい。いい枝を見つけたときは、フリスビーのように遠くから投げた。ある程度集めてから、繋ぎ合わせる作業が始まった。
 マコトは顔に泥をつけていた。拭うこともせず、集めた枝と枝を細かく切ったなわとびでつなぎ合わせていく。
「な、な、な、なななわとび切っとる小学生やら、ぜ、ぜ、ぜ、ぜぜ絶対に、ほ、ほかにっ! お、お、おらんやんね!」
「そうやね。普通、切る必要なかもん」
 私は、あははっと声を出して笑った。
 マコトも一緒になってあは、あははと声を重ねる。
「り、り、りんちゃんは、ほっ、ほっ、ほ、ほかの! ひ、ひ、人とは! か、かっ、かっ、考えが、ち、ち、違う、とっ!」
 マコトの言葉は相変わらずスムーズではなかった。だが、呼吸が荒くなることは減っていった。少しずつ福岡の方言が増えて、語尾に「と」がつくようになっていた。
 マコトが私の言葉遣いに似てくる。
 それは何とも言えない心地よさと、気恥ずかしさがあった。マコトとの会話は、いつもほんの少しだけくすぐったい。
 私は、マコトと同じように目を細めて笑う癖がついた。

 秘密基地は、五日ほどかけて完成させた。手入れのされていない雑多な山の中に、二人で繋ぎ合わせた枝が小さなテントのようになっている。結局、なわとびは一本では足りず、途中からコットンロープに切り替えた。
 タオルケットを二枚敷いて、秘密基地の中に寝転ぶ。マコトと並んで寝転んでいると、不思議な充足感があった。
「そうや、今日はここで寝らん? お母さんたちも、ここやったらいいって言うかもしれん」
「いいねぇ!」
 マコトの返事がどもらなかった。
 たった一言だけれど、私は驚いて一瞬戸惑った。
「それから! 夜ご飯はおにぎりにしようや! あとで作って持って来てからさ! お泊り会やんね!」
 少し早口になってしまった。戸惑いを隠そうとしたつもりだった。
 マコトは潤んだ目をこちらに向けて、頷いている。
「う、う、うちでっ、つ、つ、つ、つつ作ろ!」
 次の会話で、いつものマコトに戻っていた。
 私はできるだけ気持ちを悟られないように自然に返事をした。
「いいと? ならそうしようや」
 言いながら、プイッと顔を背ける。驚いたのは、吃音がないマコトが急に大人びたように見えたからだった。嬉しいような、寂しいような、何とも言えない気持ちだった。私はマコトの家まで歩きながら、自分の気持ちにどのような名前がついているのか考えていた。
 マコトの家はドアを開けるといつもふんわりといい匂いがする。芳香剤と、洗剤の匂いが混じったような、いい匂い。人の家の匂い。
 マコトの家のリビングには、小さなこたつテーブルがある。リビングを通って、引き戸の奥にあるのが、マコトの部屋。いつも窓辺には、マコトの母が用意したという観葉植物が置かれていた。マコト曰く、水をあげることより、ホコリを拭くことの方が大変なのだという。
 マコトは小走りで台所へと向かった。炊飯器の蓋を開けて、二ッと笑顔を見せる。
「た、た、たっ、楽しい! り、り、りりんちゃんと、と! い、いっしょなんはっ!」
 マコトが炊飯器から白米をよそう。お茶碗には、三匹のカエルのキャラクターが描いてあった。
 マコトはカエルが好きなのだろうか。ふいに私の頭の中に、カエルの早口言葉が浮かぶ。
「カエルぴょこぴょこ、三ぴょこぴょこ」
 私は頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
 マコトはいつものように目を細めて笑っている。
「な、なん、そ、そ、それ? カッ、カエルの! うっ、う、歌?」
「早口言葉っちゆうと。早口で言えたらすごかとかいうやつやんね。カエルぴょこぴょこ、三ぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこ、六ぴょこぴょこ」
「よっ、よ、よぉ、そ、そ、そんなん、いっ、いっ言いきっねぇ!」
 マコトは持っていたお茶碗を台所に手放した。
「もっ、も、もう、いっ、一回! い、い、いい言って!」
 マコトは両手をギュッと握って、顔の隣で拳を振った。よほど驚いたらしい。
「隣の客はよく柿食う客だ。隣の客はよく柿食う客だ。隣の客はよく柿食う客だ!」
 私は得意になって言葉を口にする。内心、ちょっと噛んでしまいそうなタイミングもあったが、うまく言えた。「す、す、すごかっ! り、り、りっ、りりりんちゃんは! やっ、やっ、やっぱり! すっ、すっ、すっ、すごか!」
 マコトに褒められて、カッと頬が赤くなる。
「マコトも、練習する?」
 恥ずかしさをかき消すように咄嗟に出た言葉に、「あっ」と声が出そうになった。吃音のマコトに言えるわけがない、そう思った。
「なんでもさ、やらなわからんやん。ウチも一緒に練習するけんさ」
 私はマコトの返事を待たずに、言葉を続けた。マコトが、「うん」と答えないと、まずい。私の軽い言葉が、マコトを傷つけてしまう。
「何かに挑戦するのって、チャレンジっち言うらしい! 先生に教えてもらった!」
「やっ、やっ、やっ、やっ、やっ、やっ、やややるっ!」
 マコトの言葉は、いつもより多くどもっていた。勇気が必要な返事だったのかもしれない。
 だが私は、心の底からホッとした。マコトを私が言ってしまった軽い言葉から守るために、言葉を現実にしなければならない。
「なら、はよう秘密基地に戻ろう! 外のほうが、いっぱい声が出せるけんが!」
 心なしか私の声が少し大きくなった。
 マコトはいつものように頭を上下にブンブンと降って頷く。
 声を出すのが難しいから、マコトは大げさに手や頭を動かしているのかもしれない。突然、そんなことを思った。
 私たちはおにぎりを二つ手に持って、秘密基地へと戻った。
「りっ、りっ、りりりりんちゃん。とっ、とっ、とっ、隣のっ、きききゃきゃきゃ客っち、なっ、なっ、なっ、なんのことや、やろうっか?」
「さぁ? あんまり意味とかないっちお母さんが言いよったけど、隣の客っちことは、電車の中とかのお話なんかなっち思いよったよ。ウチは、電車で隣に座った人がずぅっと柿を食べよるところを、いつも想像するんよ」
「あっ、はははははははっ! か、かっ、柿を!」
 マコトが声をあげて笑った。
「客ってちょっと難しかやんね。カエルのほうにせん?」
 先ほどのマコトの詰まった感じを思い返し、私は提案した。
「カッ、カッ、カカエル! 好き! おっ、おっ、おっ、おおお父さんがっ! よ、よ、よっ、よく! かっかかか、買ってくれよった!」
「なら、いいやん。カエルにしよう。お父さんに聞かせたら喜ぶかもしれんし」
 言った後に、私はまた「あっ」と、声が出そうになる。言ってはいけない言葉を使ったかもしれない。慌てて言葉を続ける。
「それに! カエルのほうがおもしろいやんね!」
「う、うん! そ、そ、そそそう思う!」
 私は再びホッとした。マコトの潤んだ目と目が合う。なぜだかわからないけれど、涙が出そうだった。
 結局、秘密基地に泊まりたいという私たちの願いは叶わなかった。二人でマコトの母親に提案するも、「いいわけないやろ!」と、すぐに一蹴された。
 ガッカリする私たちの顔を見たマコトの母親は、小さくため息をついた。
「外は危ないけん。何が出てくるかわからんやろ。この間なんか、猿が出るっち聞いたばい。一緒におりたいんなら、うちに泊まりんさい。お母さんに言っとくけんが」
「や、やや、や、やったぁ! り、り、りんちゃんっ! お、お、おお泊り!」
 マコトが飛び跳ねて喜ぶので、私も一緒になって飛び跳ねた。
 一緒にお風呂に入って、一緒に夕飯を食べる。人生で初めての外泊だった。
 夜は二人で布団に並んで天井を眺めながらお喋りをする。それだけの時間がとても楽しくて、とても大切に感じた。
「運命共同体って言うんやって。うちらみたいな関係のこと」
 私はドラマで覚えたての言葉をマコトに教えた。
 天井に「うんめい」とひらがなで書いて見せると、マコトは嬉しそうに笑った。
「り、り、り、りんちゃんは、な、な、なんでも、し、し、し、知っとうっちゃね!」
 豆電球がついた薄暗い部屋で、マコトは両手を口元に当てている。
「明日も秘密基地に行こうや。朝から行って、大きい声で早口言葉!」
 薄暗い部屋の中で、マコトの目がキラキラと潤むのがわかった。
 この日からマコトは、「り、り、り、りんちゃんは、な、な、なんでも、し、し、し、知っとうっちゃね!」が口癖になった。

 翌日から、私とマコトは早口言葉の練習を始めた。途中で合唱になってしまったり、お絵描きごっこになってしまったりしながら、発声を繰り返した。
「カッ、カッ、カカエル! カ、カエル!」
 最初の「カ」の文字から突っかかる。
 まずは「カエル」と、すんなり言えるようにしようと二人で決めた。
「大きい声で言ったほうがいいかもしれん」
「カ! カエル!」
「お! いいやん!」
「カ、カ、カエル!」
「カエルー!」
「カ!」
「カエル!」
「カエル!」
「「カエル! カエル! カエル! カエル!」」
「一緒に言ったほうがうまくいくんや!」
「「カエル! カエル! カエル! カエル!」」
 私たちはリズムに乗って言葉を繰り返した。カエルの真似をしながら飛び跳ね、二人で裏山を駆け回る。なかなかうまくはいかなかったが、不思議と悲壮感はなかった。
「よく考えてみたら、歌は歌えるっちゃもんね。なら早口言葉も歌みたいにしたらいいんかもしれんね」
「そ、そ、そ、そそそそうかもしれん! り、り、りりんちゃん、や、やっ、やっぱり! す、す、すっ、すすすごいっ!」
 私は照れながら早口言葉にメロディーをつけた。両手を振って、適当なダンスを踊る。
「カエ~ル~が~ぴょこぴょこ~! 三ぴょ~こぴょこ! もうひとつ~ぴょこ!」
 マコトも一緒になって飛び跳ねて踊る。小さな白い歯を見せて、大きな口で笑う。
 私はマコトの笑顔を見ると嬉しくなる。いつも、心の奥に小さな明かりが灯ったようだった。
「大声で言ってみようばい!」
「カエルぴょこぴょこ~! 三ぴょこぴょこ~ 合わせてぴょこぴょこ~! 六ぴょこぴょこ~! マコトぉおおお! がぁーんーばぁーれぇーーーーーー!」
 私は山から一番遠くに見える空に向かって叫んだ。できる限りの大きな声で、マコトの名前を呼ぶ。そうでもしないと、心の奥に灯った明かりが爆発して、私を飲み込んでしまいそうだった。
「かあ、あ、あっああぁーー!」
 マコトが私の隣で、叫ぶ。
「もっともっと大きい声でー! マァーコートーーー!」
 ワンテンポ置いて、私も叫ぶ。
「ああああああああーーーーーーーーーーーーーーー! ああああぁぁぁーーー! りーんちゃぁああああーーーん! ありがとおおおおおーーーーー! なかよくしてくれてーーー、うーれーしいーーーーーーー!」
 マコトの大きな声が裏山中に響いた。
 私は息を吸うのも忘れてマコトを見ていた。時間が止まったように体が動かなかった。いつの間にか、涙が頬を伝う。
「いっ、いっ、い、いいい言えた!」
「すごかやん、すごかやん!」
 声が震えた。マコトの大きな声が耳の奥から何度も聞こえてくる。
「り、り、りんちゃんが! おっ、教えてくれたっ、けん!」
「マコトが頑張ったけんやん!」
 気づいたら、マコトも大粒の涙を流していた。
「き、き、き、き気持ち! よっ、よっ、よっ、よよよかった!」
「大声出すと、気持ちよかやんねぇ! でももう、全然早口言葉は関係ないけど!」
 私は涙を拭って笑った。
 マコトも同じ仕草で、笑う。
 結局、大声ではないときはすぐに吃音が戻って来ていることに、私たちは気づいていた。けれどそんなことはもう問題ではなかった。

 ひとりっこ、母子家庭、隣の家、同い年。
 私の大切な友達、マコト。

 中学校に上がる頃、マコトの身長が急に伸びて、私と同じくらいになった。吃音が治って、「りんちゃん」とすんなり発音できるようになった。顔つきも、同い年の私が見てもわかるくらい、ぐんと大人っぽくなった。 
 私はもうずっと、マコトが好きだった。
 壊れそうな宝物だったマコトはいつしか、何よりも輝く一番の宝物になっていた。 
 マコトの母親がシャンプーを変えれば、マコトの髪のにおいが変わる。
 マコトの大好きなグラタンが、私も一番好き。ホワイトソースを缶詰じゃなくて小麦粉から作れるのは、マコトのおかげ。
 部活は、マコトがバスケ部に入ったから、私もバスケ部に入った。
 バスケ部でのマコトは、驚くほど俊敏に動く。三年生になるとガードを任されて、ほかの部員たちに指示を出すようになった。
 対して、マコトにくっついて入っていただけの私はバスケがそれほど上達するわけでもなく、ただ適当に過ごすだけ。やる気のない部員だった。私はどこか焦燥感のようなものを抱いていた。マコトがどこか遠くに行ってしまっているような感覚だった。
「りんちゃんはなんでも知っとるけんねぇ」
 マコトの口癖は、少しずつ変わって、誰にでも向けられるようになった。自分の友達に、私の話をよくしているらしい。誰に何を話したとか、誰が何と言っていたとか、マコトはとてもよく喋るようになった。
 マコト以外の人からも、マコトの話を聞くことが多くなった。いつも「守ってあげてね」と言われていた私だけのマコト。いつの間にかそんな状況はなくなってしまったようだった。
 本当は、自分だけのマコトなんていなかったのかもしれない。そう思った。
 だが、私はマコトの口癖に答えられるよう、なるべく色々な知識を身につけるようにしていた。本を読んで、内容を覚えておく。それが自分なりのマコトとの向き合い方のつもりだった。
 相変わらず、母親同士の不在がわかれば夕食を一緒に食べた。
 マコトの家は、相変わらずいつもいい匂いだった。
「永井君、すごかよね! 勉強いっつも一番やない? あの人見よると、りんちゃんみたいな人やなぁって、思うっちゃん!」
 真っ白なお茶碗に盛り付けられた白米を豪快にすくいながら、マコトが言った。
「あぁ、永井ね。頭いいんよね。なんか塾やら行っとるって聞いたばい。でもウチは、勉強ができるわけではないけん」
 胸がザワザワする。
「そんなことなか! りんちゃんは、友達の中で一番なんでも知っとる!」
 マコトは右手で箸を、ピンと立てて見せた。
 私は、なんと言葉を返していいのかわからなかった。マコトのカエルは、どこへ行ってしまったんだろう。

 十五歳になったばかりの昼休み、改まったようにマコトが私を呼び出した。
 私のクラスの教室のドアから、片方だけ踏み出しているマコトの上靴が見えた。
「りんちゃん……やなくて、千賀さんいますか?」
 近くの席に座っていた新井さんに尋ねている声が聞こえた。本当は、マコトが教室に来たときから、気づいていた。
 マコトは私の教室にあまり来ない。いつだって、私が教室に迎えに来るのを待っている。そういう子だ。
 新井さんがゆっくりと私のほうへ近づいて来る。
 心臓の音が速くなっていることが、自分でもわかった。新井さんからマコトの来訪を伝えられ、私は席を立った。
 マコトはその場で小さく飛び跳ねながら、私の到着を待っている。
「どうしたん?」
 できるだけ、自然に声を出したつもりだった。喉がキュウッと詰まる。
「りんちゃん、聞いて! 私ね、彼氏ができたんよ」
 マコトは私よりも随分と高い声を出して言った。覚えたてのメイクで頬をほんのりピンク色に染めている。だが、それ以上に頬自体が赤らんでいるのがわかる。
 恥ずかしそうに笑うマコトは、たぶん、今まで見た中で一番かわいかった。
「よかったやん、三組の永井?」
「りんちゃん、知っとったと? やっぱり、りんちゃんは何でも知っとるんやね!」 
 さっきよりも、もっと嬉しそうにマコトが笑った。潤んだ目を細めて、白い歯をニッと見せる。スカートの丈が、前よりもずっと短くなっている。
 いつの間にか。マコトは変わっていく。私の見ていないところで、少しずつ。私はギュッと奥歯を噛み締めた。「なら、もう一緒に帰れんね」 
 たぶん想像もしていなかっただろう私の言葉に、マコトは少し困った顔をした。幼い頃と変わらない、今にも泣きだしそうな潤んだ目。
 こんなときでも、やっぱりマコトはどうしてもかわいかった。
「気にせんどって。別にひとりで帰れるけん」
 マコトの返事を待たずに、言葉をかけた。私はマコトから目を背け、席へと戻る。意地悪をした。自分でもわかっている。

その日の帰り道は、晴れ上がった空から大げさな雨が降っていた。田んぼの土と雨の匂いが混じって、宙を彷徨っている。
 降り注ぐ大粒の雨を見て、バケツをひっくり返したみたいだなと思った。私はビショビショに濡れながら、あの日の早口言葉を唱える。
「カエルぴょこぴょこ、三ぴょこぽこ」
 少し噛んだ。涙が零れ落ちる。
「合わせてぽこっ、ぽこ」
 嗚咽が込み上げてきて、うまく言えない。
「む、むっ、むっ、むっ、六ぽこぴょこ」
 ザーザー、と雨が地面を叩きつける。中学校から延びるあぜ道では、いつもカエルが鳴いている。
 全身で雨を喜ぶカエルの姿を見て、声が漏れた。
「マコトおぉ。大好きやったぁ……」
 大粒の雨は、涙が隠れてちょうどいいと思った。

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ichinooikawa
編集・ライター・ステップファミリー・ホームパーティーマニア。猫と夫と息子と娘。20時以降は飲酒している。夫と漫画が大好き。