駅前のカフェは土曜日という事もあって、空席が一つもない。羽鳥萌絵は人の多さを疎ましく思った。たまたま入店したタイミングで席が空いてすんなりと座ることができたけれど、そうでなければ待ち合わせ場所を変えようと提案するところだった。
萌絵は頬杖をつきながら、ほんのわずかな時間差でカフェに入って来た徳島栞の顔を見上げた。久しぶりに会った栞は、髪が伸びていた事を除けばほとんど高校生の頃と変わらなかった。「何年もずっと同じ眼鏡をかけているの?」と尋ねようか迷って、何となく口を噤んだ。
高校を卒業して以来の再会だった。栞は萌絵の向かいの椅子に座り、慌ただしく口を開いた。
「加奈ちゃんに、会ってた?」
「たまにね。家に遊びに行ったりしてたよ」
「そう」
加奈が起こした事件について聞きたいのだという事は、栞から連絡があった時点で気付いていた。
栞とは、加奈や万由子を介して一緒にいただけで、高校時代からあまり気が合わないと思っていた。嫌いとか苦手だという感情があるわけではない。単に気が合わない子がグループにいるという感じだった。栞の方も、同じように感じていたと思う。
「栞は? 加奈と会ってたの?」
「高校卒業しちゃってから、全然」
「そっか、仲良かったのにねぇ」
高校時代、栞はいつも加奈の事をジッと見ていた。加奈の髪飾りをマネしたり、加奈にだけ親しげに話しかける事に、気付いていながら触れる事はないまま、萌絵の高校生活は終わった。どうでもよかったのか、思春期特有の友達に対する嫉妬が混じっていたのか、今となってはもうわからない。
「誠君の話、聞いた?」
栞は、少し声を潜めるように話した。
「聞いたよぉ。もうビックリしちゃったぁ。でも加奈なら、やりそうだと思ったけどねぇ」
萌絵は栞に合わせて、声を小さく潜めて話した。栞は驚いた様子で唇に手を当てた。
「なんで? なんでそう思ったの? 何か、何か言ってなかったの」
「愚痴は、よぉく言ってたよぉ」
「加奈ちゃんが?」
「うん、会うたびにねぇ。ずーっと、誠の文句」
「悩んでたんだ……」
栞の眉毛が少し下がる。萌絵は何故だか少しイライラした。
「一番ゾッとしたのは、誠の事、『誠也さん』って呼んでた事だけどねぇ」
萌絵の言葉に、話が見えないというように栞が首を傾げる。下がった眉と眉の間に、キュッとシワが寄った。萌絵が続けて口を開く。
「加奈のお母さんが万引きで捕まったって話、知ってる?」
栞は目をパチパチとまばたきさせながら、首を横に振る。萌絵は軽く周囲を見渡した。満員の店内には、高齢の男性客が目立つ。薄暗い店内にはオレンジ色の照明と、古い内装。カフェというより喫茶店という言葉が似合う。
「七年間万引きを続けていたんだって。それが原因で離婚しちゃったらしいよ」
萌絵はなるべく栞の方に身体を寄せながら、話を進めた。
「いつ?」
「うちらが高一の時から六年前だから、九歳の時?」
「嘘! 加奈ちゃん、お母さんの話してたじゃない」
「だから、それが嘘なんだって」
「そんな事なんで知ってるの? 誰に、加奈ちゃんに聞いたの?」
注文を取りに来たカフェの店員が隣に立っても、栞は構わず話し続けていた。最初に話し始めた時よりも、声は随分大きくなっている。萌絵は「落ち着いて」というように、小さく息を吐き出して優しく言った。
「声、小さくね。周りの人がびっくりしちゃうから。ちゃんとして」
栞は、ごめんね、というように両手を合わせて周囲を見渡す。萌絵はもう一度口を開いた。
「高校生の時から知ってたよ。だから、加奈もいつか何かするんじゃないかって、思ってたんだよね」
「それと今回の事と、なんの関係があるの?」
「蛙の子は蛙って、言うじゃない」
栞はグスングスンと鼻をすすって泣き出した。口の両端をグッと横に広げて、萌絵の方をジッと見ている。高校生の時、ずっと加奈を追いかけていたあの目だ。栞はいつも何か言いたげで、けれど何も言わない子だった。ただ、ジッと見つめて目で物を言う。
萌絵はテーブルの下で両手を組んで、コーヒーを二つ注文した。店員が席を離れる少し前に栞が口を開く。
「なんにも知らなかった。だけど、でも、信じられなくて、加奈ちゃんがそんな事するなんて。あのキラキラした加奈ちゃんが」
「キラキラ……」
萌絵は、キラキラという言葉を鼻で笑った。少なくとも萌絵は、加奈をキラキラしていると思った事は一度もなかった。もしかしたら、最初の頃は思っていた事もあったのかもしれないけれど、もう忘れてしまった。
間仕切りに垂れているアイビーが風に揺れる。新しい客がドアを開けたが、カフェにはもう座るスペースがない。
「でも、夫を別の名前で呼ぶなんて、正気じゃないと思うよ。加奈のお母さん、マコトっていう名前なんだよね。日渡マコト」
「どういう事? お母さんと同じ名前だから?」
「お母さんの事、コンプレックスだったから、同じ名前で呼べなかったとか? 詳しくは知らないけどねぇ」
「お母さんが万引きをしたとか、どんな人だったとか、私は知らないけど、そんな事が夫を殺してしまう事につながる? 同じ名前だから殺したっていう事?」
栞がはっきりと「殺した」という言葉を使った事に驚いた。誰が話を聞いているかわからない、満席のカフェで使う言葉じゃない。
「詳しくは知らないってば」
「萌絵ちゃん、加奈ちゃんの話聞いてあげなかったの?」
「だから、聞いてたんだよ。ずっと。来る日も来る日も、夫が空気読めない、夫と会話が嚙み合わない、夫と話したくない、夫が、夫が、夫が、って言ってるのを、何年も。なんで私があんたにそんな事言われなくちゃならないわけ?」
萌絵の口調が思わず強くなった。栞の「加奈びいき」は、高校を卒業して何年経っても変わらないらしい。
例えば本当に加奈がものすごく悩んでいて、その話を誰かに話したとして、その問題は解決するだろうか。多くの悩みや問題は、友達に話を聞いて貰ったくらいではどうにもならない。萌絵はその事をよく知っているつもりだった。十数年ぶりに会った栞に、これまでの萌絵と加奈の関係が見えているわけでもない。
「ごめん。加奈ちゃんにはずっと連絡したかったのに、出来なかったから、自分に対する憤りとごちゃ混ぜになってるのかも。ごめん」
「栞が加奈の事を大切に思ってたのは知ってるよ。でも、私たちには私たちの関係というのがあるから」
「そうだよね、ごめんなさい」
視線を逸らすように下を向いた栞が、すぐに顔をあげて入り口の方を向く。ドアがカランカランと音を鳴らした。
「万由ちゃん!」
大きな声で万由子の名前を呼びながら、栞が立ち上がる。間仕切りに垂れ下がったアイビー越しに、大きなビジネスバッグを持った万由子の姿があった。万由子は夜会巻きにスーツを着て、萌絵と栞の座っている席に歩いて来る。
「あんた、江本誠と付き合ってたの?」
万由子の第一声に、萌絵は思わず笑ってしまった。
高校一年生、半袖のブラウスに腕を通す頃。学年で噂の「天使君」と偶然帰り道が重なった。たまたまその日はどこかに用事でもあるのかと思っていたら、次の日も、そのまた次の日も帰り道は同じだった。
「誠くぅん」
最初に声をかけたのは、萌絵の方だった。初めて彼の名前を口に出して呼んでみると、やたらに母音が挟まるような喋り方になった。少しくすぐったいような気持ちだった。
誠が声を出さないまま、振り返った。目の上を覆うような長いまつ毛が揺れる。
「最近、この道でよく会うよねぇ」
誠は少し首を傾けて、萌絵をジッと見ている。きゅるんとした目は、まるでさっきまで泣いていたかのように、潤っている。何も言わない誠に、萌絵は同じことをもう一度言った。
「この道でよく会ってるんだよぉ。前はそんなことなかったのに……引っ越しでもしたの?」
「うん。引っ越した」
萌絵が初めて聞いた誠の声だった。萌絵の口角が自然と上がっていく。
「じゃあ、それだぁ。中学校は、自由ヶ丘中? 今は城中の区域? あー、もう中学生じゃないから区域も何もないかぁ」
「うん、自由ヶ丘中。今は、城中の区域」
誠は、萌絵の言葉をなぞるように繰り返した。萌絵は恥ずかしいような泣きたくなるような感覚と同時に、心臓が高鳴っているのがわかった。普通に喋ろうと思えば思うほど、言葉の母音が伸びていくような気がする。誠はとても落ち着いているように見えた。白い肌に載せられた、薄い唇とアーモンド形の瞳は、恐ろしいほど美しかった。
「私の事、知ってるぅ? 四組だよぉ」
「知らない」
顔色ひとつ変えずに誠が四文字だけ、口を動かした。
「私はあなたの事知ってるよ。七組の天使君」
「天使ってエンジェル?」
立ち止まっている誠を、少しリードする形で話しながら萌絵が歩き始める。誠も、萌絵に合わせて歩き始めた。
「あなたの事よ。天使だって、私の友達が呼んでたよぉ」
「なにそれ」
誠は目を細めて、少しだけ笑ったような表情になる。誠の潤った目が小さくなって、萌絵はまたしても泣きそうになった。
「なんで引っ越したの?」
「家を買ったんだ」
「いいねぇ。新しい部屋なんだ」
「うん。一人部屋」
ポツリ、ポツリと言葉を下に落とすように誠の話し方を、雨雫みたいだなと萌絵は思った。
その日をきっかけに、誠と萌絵は帰り道を一緒に歩くようになった。初めの方こそ萌絵ばかり話を始めていたけれど、何日も一緒に歩いているうちに、誠も自分から話をするようになった。
マルという名前の雑種の犬を飼っていること、母親が雑種の事をミックスと呼ぶこと、マヨネーズに料理をたくさんかけると怒られること、誕生日が一月一日で年の初めはいつもおせちではなくケーキが出てくること、隣の家のおじさんのクシャミが大きかったこと、美術の今籐先生の髪が少しズレていたこと、土曜日はいつも両親が一緒に出掛けていくこと。
誠が新しい話をしてくれる度に、萌絵は愛しいような切ないような気持ちになった。誠の言葉にはいつも、どこから来るのかわからない優しい風が吹いている。セミの鳴く声と、汗が混じった鉄みたいな匂いがする。この時感じた夏の匂いを、萌絵はずっと覚えておきたいと思った。
最初に話をした日から一ヶ月ほど経った土曜日。携帯電話で何度かメールのやりとりをしてから、萌絵は誠の家に遊びに行った。誠の家は、萌絵の自宅から十分程の場所に建っている新築の注文住宅だった。新しい木の匂いがする家は、人の家と言ってもワクワクする。
「お昼ご飯、食べた?」
階段を上りながら誠が言った。真っ白な壁紙と同じ色の階段は、段差が急で上るのが少し怖い。廊下側の壁の途中にはガラスのない窓が二つ並んでいる。
「食べてないよぉ」
萌絵は誠と連絡をとるようになってから、胸がいっぱいで食事が出来なくなるという事を初めて経験したばかりだった。ここのところずっと、胸の奥に何かが詰まっているかのように息苦しい。しかしそれは決して不快な感覚ではなかった。体重が自然と落ちていって、身体も軽くなった。ダイエットにもなるし、このままこの感覚がずっと続いてほしいとも思っていた。
「松屋って知ってる?」
「知らなぁい。ご飯屋さん?」
「牛丼。角に文具屋とコンビニが並んでるところがあったでしょう? その並びに先月出来たんだよ」
「美味しいのぉ?」
「とってもね。後で行ってみる?」
誠に会うと萌絵は、家にいる時よりも胸が詰まる。とてもじゃないけれど何かを食べたいという気はしなかった。けれど、誠が食べたいと思うものなら、牛丼屋に着いて行こうと思った。誠が美味しいと思うものを見て、知っておきたい。
階段を上り切って、二階のドアを二つ通り過ぎる。一番奥の部屋の前で誠が立ち止まった。「どうぞ」と、小さく声をかけて開けた部屋は、シンプルでさっぱりとしていた。ブルーのアクセントクロスに、ブラウンを基調としたベッドカバーがとてもおしゃれで上品に見える。誠の母親が家を建てるときに、部屋に合わせて壁紙を一つひとつ決めていったのだという。萌絵は自分の家が古くて拘りのない家具しか置いていないことを思い出し、気恥ずかしさを感じた。
「天使君」と呼ばれるような人は、家の中まで綺麗なのだな、と萌絵は思う。不釣り合いという感覚はなかった。そんな誠に選ばれた自分という、どこか得意げな感情が確かにあった。
初めてのデートはくすぐったくてたまらなかった。誠がほんのちょっと動くだけで、萌絵にふわっと風が吹く。ジェットコースターのてっぺんで、一瞬だけ宙を浮いている時みたいだった。自分が自分じゃなくなってしまうような気がしたけれど、それも嫌じゃなかった。
誠の真似をして一緒に頼んだ牛丼は、やっぱりあまり食べられなかった。けれど萌絵が残した分を誠が食べてくれたので、それが嬉しかった。「彼氏と彼女」って感じがする、と萌絵は思った。
その日から、毎週土曜日は必ず二人で会うようになった。約束をしているわけでもないのに、何となしにどちらかが連絡をする。それは高校生だった萌絵にとって、生活の全てを捧げているような行為だった。
朝起きてから眠りにつくまで、何をしていても絶え間なく誠への気持ちが溢れ出る。世界中の人に、自分は今こんな気持ちなんだよ、と言いふらしたいような気分だった。
この頃から萌絵は、誠への想いを綴るためにインターネット上で日記を書くようになった。文章を書くのが得意だったわけではないので、単語をいくつも並べて短い詩のようなものをたくさん書く。誠からのメールを待っている時は、ずっと携帯電話で文字を打っていた。授業中も思いついた時はノートの端っこに詩を書いた。書いていると切なくて、涙が零れそうになる。
同級生にはどうしても誠との事を話せなかった。誠は大変な人気者で、たくさんの女子が狙っている。そう思うとうまく言い出せなかった。自分が何をしているのか言葉にするのが何となく怖かったというのもある。けれどいずれバレてしまう事になるだろうと思っていたし、時折その日の事を想像してニヤけてしまう事もあった。きっと万由子なんか、目を丸くして羨ましがるに違いない。
誠と二人で迎えた夏休みは、愛しいでいっぱいだった。誠がいつもエアコンの設定を二十度にするので、萌絵は薄手のカーディガンを誠の部屋に置いた。それでも寒いときは、ベッドの布団にくるまった。「萌絵ちゃんは寒がりだねぇ」と言いながら、萌絵の頭を撫でる誠が、たまらなく愛しいと思った。何度も一緒に牛丼を食べに行って、たまに誠の家のキッチンを借りた。誠と二人っきりで生活する土曜日は、新婚になったような気分だった。
夏休みが終わると、長い秋がやってきた。早く誠がコートを羽織る姿が見たいのに、ちっとも寒くならない。十一月上旬だと言うのに、長袖をまくっている誠を見ながら、萌絵が言った。
「まだ寒くならないねぇ」
「そうだねぇ」
「誠君のコート姿、早く学校で見たいのになぁ」
「どうやったって、冬は来るからねぇ」
「それもそうだねぇ」
誠は、萌絵と一緒になって語尾を伸ばして喋る。袖まくりした腕で、本を読みながらベッドに寝転がっている。
「あれぇ? 今日、マルは?」
萌絵がふと二階の窓から見える庭を覘くと、いつも犬小屋があるはずの場所にポッカリと空間が出来ている。砂利敷きの庭に、犬小屋の形の黒い土が見える。
「マルはいなくなっちゃった」
「え! なんで?」
「色々、あって」
誠が淡々と話すので、触れてはいけない話なのだと萌絵は思った。いずれにせよマルがいなくなった事は事実なのだから、悲しくてあまり話をしたくないのかもしれない。
「そっか……。寂しくなるねぇ」
萌絵の言葉に、返事は返ってこなかった。
誠はどこか浮世離れしたようなところがあって、生活をしている上で何かに慌てたり感情的になるような事がほとんどなかった。いつ勉強をしているのかわからない程ゆったりした生活をしているように見えたが、成績はよかったらしい。試験の直前に大慌てしている萌絵を見て、日々の積み重ねだから直前に勉強をしても意味がないと、どこか他人事のように話したりしていた。
けれどそんな誠が、一度だけ「落ち込んでいる」と話した事があった。美術が得意ではないのに、なぜか一年の選択授業で美術を選んでしまい後悔しているのだと言う。相談とも取れるその話に、萌絵は少なからず喜びを覚えた。
「全体を見て絵を描けって言うんだ」
「あぁ、よく言ってるよねぇ」
恐らく美術の今籐先生の話だろうと萌絵は思った。誠の話はいつも突然に、主語がないまま始まる。
「けれど僕は、一部分から始まる芸術もあると思っている」
「そうなんだぁ」
「部分、部分を見て、やがて全体が完成する。その時にしか生まれないものがあると思わない?」
「そう思うよぉ。先生は、あくまで成績を付ける基準について話してるだけなんじゃないかなぁ。成績と芸術は別物なんじゃない?」
「美術とは芸術の事だよね? どうして美術の成績を付けるのに芸術とは別物という話になるの?」
「うーん」
萌絵が考え込んでいる隣で、誠はポツリ、ポツリと話を続ける。
「別に、美術の成績が良くなくたって構わない。けれど、採点の方法があまりにも主観的すぎるのは良くないと思う。だから、美術は、嫌いなんだ。ちょっと、落ち込んでる」
「絵、見せてよ。私が成績をつけてあげるよぉ」
萌絵は八重歯を見せて、誠に笑いかけた。
誠は無言のまま顎先で三回頷いた。クローゼットの奥から出てきた美術の作品は、クラスの靴箱を引きで描いた油絵だった。靴箱の隣には傘立てらしきものが置いてあって、色とりどりの傘がささっている。靴箱はステンドグラスのようにベタベタに塗りつぶしてあるのに対して、何故か傘と空間の境目が全体的にボカしてある。お世辞にも上手いと言えない油絵だった。萌絵はくすりと笑いがこみ上げて来るのを感じた。
「百点! 百点満点だよ! 通知表で五を取れるくらい素敵だよぉ」
萌絵は大げさに驚いて見せる。相変わらず誠は淡々と言葉を返す。
「まだ五段階評価までは出ていないよ。ただ、この作品に対して評価Dを貰っただけ」
「じゃあ、スペシャルAだねぇ! Aより上の、特別なA」
「スペシャルAか。それはいいね」
誠がにっこりと笑って萌絵の頭を撫でた。今まで見た人間の中で、一番美しいと萌絵は思った。誠と一緒にいると、萌絵はいつも涙が零れ落ちそうだった。今になって思い返せば人生で一番輝いていた時期かもしれないと思う。触れ合う肌の愛しさも、自分以外の誰かを大切に思う気持ちも、すべて誠が連れてきた。部屋を出ても、帰り道を歩いていても、いつまでも誠に触れていたかった。けれど、その幸せは長くは続かなかった。
忘れもしない高校一年生の冬、加奈と誠が付き合っているという話を聞いた。万由子が持ってきた最悪のニュースだった。萌絵は頭から足先までサーっと全身の血の気が引いていくのを感じた。初めての感覚に、自分自身がきちんと地に足をつけて立っているのかどうかもわからなくなった。
その日から、萌絵と誠が一緒に帰る事はなくなった。
けれど不思議な事に、その週も土曜日になると、萌絵はいつものように誠の家にいた。涙を流して色々な「どうして」を投げかけても、まともな言葉が返ってこない。ふわっと萌絵の身体を浮かせたジェットコースターは、そのまま真っ逆さまに下まで落っこちてしまった。表情の見えない誠の横顔が、どうしようもなく寂しかった。
「私の事は好きじゃないの」
「……」
「私の事はなんだと思っていたの」
「……」
誠は、瞬きをするばかりで萌絵に言葉をひとつも渡さない。萌絵は周囲の酸素が薄くなっていくのを感じた。
「どうしてそんな酷い事が出来るの」
「……」
「いつから加奈と連絡取っていたの」
「…十一月くらい」
消え入りそうな声で絞り出すようにして吐いた「十一月」という単語に、マルの犬小屋がなくなっていた事を思い出した。萌絵は自分の身に起きている事以上の胸騒ぎを覚えた。
「マルは、どうしてマルはいなくなっちゃったの」
「犬が嫌いなんだって、加奈ちゃん」
見当違いにも聞こえる誠の返答に、萌絵は全身の力が抜けていくのを感じた。立っている事、座っている事はおろか、息をするのも難しい。どうやって、息を吸って、吐いたらいいのかわからない。胸を押さえて丁寧に呼吸をしようと思っても、どんどん苦しくなっていく。誠は、蹲る萌絵の頭を優しく撫でていた。
それからの萌絵の高校生活は、地獄だった。加奈に聞かされる「彼氏」の話を聞いていると、日に日に自分から誠が離れて行くような気がした。同時に自分自身の存在が意味のないもののように感じて、孤独感で動けなくなるような事が増えた。食欲は、ある時とない時の差が激しくなった。食べられる日が続いたと思ったら、急に食べられなくなる。胸の奥を誰かが掴んだり、離したりしているようだった。体重が増えたり減ったりを繰り返して、本当の自分の体形も食べる量も、いつまでも定まらなかった。
萌絵はよく、誠と出会う前の自分はどうやって生きていたのだろうと考える。食事をとることも、高校生活も、どんな風に笑って過ごしていたのか、覚えていない。母親に当たる事も多くなった。母親が呑気にドラマを見ているだけで、イライラしてくる。それまで不満に思った事のなかった母親のどんな時でも前向きな姿勢や、正しくある事を目標とする姿は、とにかく萌絵の気に障った。誠との不道徳な関係性を中心に生活している自分が、ひどく否定されているような気になるのだ。
当時母親は同じドラマを何度も見ていた。男女が出会い、別れ、けれどどうしても引き合ってしまうというベタベタなラブストーリー。キャッチコピーは、「絶対的な運命の人」。ドラマでは、柊二という男性が不器用ながらも懸命にひとりの女性を愛する。
萌絵は、本当にくだらないドラマだと思った。母親と父親の関係性が、真っ当な恋愛の末のものではない事を後ろめたく思っているから、こんなものが面白く感じるのだ。「あぁ、あの人も柊二みたいだったらよかったのに」という言葉を聞いた時は、頭が割れそうな程腹が立った。
あの人というのは、萌絵の父親の事だ。母親は生きているだけで、萌絵を肯定したり、否定したりする。
自分の状況と母親の状況が複雑に絡み合い、萌絵の感情は休むことなくずっとグチャグチャだった。以前なら考えられなかったような、検討違いの罵声を度々母親に浴びせた。声が裏返って、いくつも汚い言葉が飛び出してくる。母親を傷つけるための言葉なら、いくらでも思いつくような気がした。世界中の悲しい言葉を集めて、出来るだけ深く傷をつけても、全然足りないと思っていた。そのとき母親は、萌絵の言葉を全て受け止めて、ただひたすら隣に寄り添っているような素振りを見せた。
二十年近く経った今となっては、母親が本気で寄り添ってくれていたのか、自身の後ろめたい人生に対する贖罪だったのか萌絵にはわからない。傷つけても傷つけても足りないと思っていた母親は、昨年あっさりと脳梗塞で急逝してしまった。最後まで、何かを強く言い返したりするような事はなかった。けれどこの日、何故だか萌絵は今までで一番強く否定されたような気がした。同時に、いい加減自分自身にケリをつけなければいけないと思った。
誠との関係がこんな事になってしまったのは、母親のせいだという思いがいつまでも拭えなかった。けれど、自分自身が「ちゃんとしていない」からだという事も、心のどこかでわかっていた。
—ちゃんとすることがだいじ。
萌絵は、母親の言葉を何度も口にする。この長く苦しい初恋を終わらせる為には、あの美しい横顔を消してしまうしかない。母がいなくなってしまった家のリビングを見て、強くそう思った。
決して止む事のなかった霧雨が、晴れていくような気がした。
「高校生の時からずっと付き合ってたって、本当なの?」
ビジネスバッグをドスンとテーブルの上に落とし、万由子が言った。古びたカフェに似合わない大きな夜会巻きのヘアスタイルで、睨むような強い視線を萌絵に向けている。二十年ぶりに会うというのに、万由子の馴れ馴れしい距離感は変わらないなと、萌絵は思った。
「え、どういう事? 萌絵ちゃんが? 誠君と? なんで? 加奈ちゃんは?」
栞が矢継ぎ早に疑問を口にする。萌絵は胸の奥を掴まれて、グラグラと揺さぶられているような気がした。
「そうだよぉ。加奈なんかよりずっと前からねぇ。ずーっと、私が隣にいたんだからぁ」
言葉と一緒に、涙が溢れ出る。萌絵の内側にずっと彷徨っていた高校生の時の自分が喋っているようだった。高校の制服を着て、両足を踏ん張って必死に立っている。
「気持ち悪いんだけど。あんたが江本誠に何かしたの?」
万由子が吐き捨てるように萌絵に言った。興奮しているのか、少し早口になっている。
「万由ちゃん、ちょっと声が大きいよ」
栞が万由子の声の大きさを注意したので、萌絵は飲んでいたコーヒーを栞の頭からかけた。
「お前だよさっきからずっとうるさいのは」
放り投げたコーヒーカップが床に落ちて、ガシャンと音を立てて割れた。冬だというのに、セミの鳴き声が聞こえた気がした。
第六章『二人のマコト』終。
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第一章【漆の汁椀とマヨネーズ】
第二章【ママの書置き】
第三章【泥棒のいる家】
第四章【ベビーブルー】
第五章【クレプトマニア】
第六章【二人のマコト】
第七章【私のアドニス】
第八章【マザーコンプレックス】