マザー・コンプレックス

ママの書置き

 江本優は、今日も苛立っている母親と、すぐに黙り込んでしまう父親の顔を交互にのぞいた。優の友人の達也が、最近変わってしまったという話からだった。
「ママだったら、何かあったのって、達也君に聞いてみるかな」
「優には優の、考えがあるんじゃないかな。優は、優のタイミングで動くんだよ」
「そんな事は分かってる。分かった上で、私ならどうするか?の話をしているんだけど」
 また、予期せぬタイミングで険悪な空気になってしまった。優は母親と父親の冷たい空気に、ソワソワと肩を揺らした。こんな時はジッと黙っているか、何とか話を別の方向に転換するように二人の気を引く以外、ほとんど出来る事はない。今は、自分が作ったお茶がゆっくりと煮出されて、父親に差し出せる時をジッと待っている。
小学四年生になるというのに、優はまだ母親の事を「ママ」と呼んでいる。いつだったか「お母さん」と呼んでみようと思った事があったのに、タイミングを逃してしまい、そのままずっと「ママ」のままだ。授業参観や運動会の時には、友達の前でうっかり「ママ」と呼んでしまわないように気を付けている。
 優にとって母親はいつも正しい人で、嘘をつく事や間違った事は絶対に許されなかった。特に、友人にいたずらをして泣かせてしまったりすると、ひどく叱られた。ちゃんと謝ったのか、どうしてそんな事をしてしまったのか、その時相手の気持ちは考えられなかったのか、いくつも質問をされて、間違えた答えを言うともっと叱られた。優はこの、窮屈な質問の時間が苦手だった。
 宿題や明日の持ち物の準備のほかにも、母親に注意をされる事はいくつもあった。何も怒られない日は、母親に会わなかった日。そういった日は、必ず書き置きが残してあった。優が何度も携帯電話をなくしてしまうので、食事のメニューと帰る時間を記したメモが、あらかじめテーブルの上に置いてあるのだった。
「お茶、出来た」
 茶葉の抽出時間は、九十秒。急いで秒数を数えたせいで、少し早く出してしまったかもしれないと、優は思った。

「みんなで食べよ」
 幸則が北公園に大量のお菓子を持って来た時、優は違和感を持った。いつもお菓子を持って来るのは、敦と正和だと決まっているからだ。優の家にお菓子はいつだって置いていなかったし、幸則の家もきっと同じような状況なのだろうと思っていた。
 幸則がニコニコしながらお菓子の袋を開けていく。優は先程覚えた違和感の事はすぐに忘れて、食べたかったスナック菓子を手にとった。
「幸則がお菓子持って来るの、珍しいじゃん」
敦は持っていたゲーム機をベンチの上に置いて、お菓子をひとつずつ手に取った。
「お母さんが買ってくれたの?」
 正和の質問に、幸則は返事をしなかった。代わりに、お菓子の山からお寿司のパッケージの箱を取り出す。
「これ、お寿司作れるんだって。作った事、ある?」
「ない! やってみたい!」
「妹が作ってるの、見た事あるよ」
「水、いるんじゃない? うち行く?」
 敦の一言で、みんな揃って敦の家に移動する。優は一年生の時から、敦と仲がよかった。常にリーダーシップをとっていて、知らない事をたくさん教えてくれる敦が大好きだった。敦と一緒にいれば、自分まで無敵になったような気がする。学年があがるにつれて、自然な形で幸則と正和が仲間になった。最近はいつも四人で遊んでいる。
 以前は達也も一緒になって遊んでいたが、去年の夏休み以降なぜか一緒に遊ばなくなった。確かにその時は、母親の言う通り「何かあったのか」という気持ちになった。けれどそれから長い時間が経ってしまった今、何があったのか聞いたところで達也が答えられるはずがない。
「今日は母ちゃん、七時までは帰ってこないから。子供だけのパラダイス」
 家に着くと敦が言った。敦の家の中はいつも温かいと優は思う。母親がいない時でも、家族の仲がいい空気が、ずっとそこに残っているような気がする。敦の母親と父親は、いつも二人で夜遅くまで楽しそうにおしゃべりをしているらしい。
「子供だけのパラダイス」というのは、四人の合言葉のようなものだった。とは言っても、合言葉はいつも敦の気まぐれで変わる。少し前までは「ケチャップリン」だったし、その前は「バンブー六時」だった。
 優は、いつも唐突に敦が言い出す合言葉が好きだった。自分には思いつかないような秘密の合言葉をみんなで共有するのは、ワクワクする。
「子供だけ~の! パーラダーイース!」
 突然、幸則が大きな声を出した。
「歌? 下手くそだなぁ」
「でもユキ、音楽の時間いーっつも一番声でかいもんね」
 四年生になって、幸則と同じクラスになった正和が笑いながら言った。
「子供だけ~の! パーラダーイース! 子供だけ~の! パーラダーイース!」
 幸則は一層大きな声を出して歌う。四人は、幸則の歌に合わせて適当に歌った。「パラダイス」という言葉が妙におかしくて、顔を見合わせて何度も笑った。
 その日の夕方、優はまた門限を過ぎてしまった。「怒られる」と思ったのは、玄関のドアの前だった。それまではすっかり時間の事は忘れてしまっていた。覚えていようと思っていても、遊んでいるうちに門限の約束はいつもどこかに行ってしまう。優が母親に怒られるのは、大体が同じように忘れている約束についてだった。
 いつだったか、帰宅したら母親が抱きしめて褒めてくれる時期があった。褒められると言う事が嬉しくて、数日間は門限を守る事が出来た。けれど、何日か経つと慣れるものなのか、優はうっかりまた門限を破ってしまった。その日はそんなに怒られはしなかったが、その後門限を守っただけで母親が褒めてくれるという事はなくなった。優は今でもたまにあの数日間の事を、思い出す。
「おかえり」
 母親の声がいつも通り明るいという事を確認して、優はホッとした。母親はたまに、門限を過ぎている事に気づかない時がある。父親は、家にいてもいなくてもあまり変わらない。昔はもっとよく喋っていたが、父親と多く話すと母親が嫌な顔をするようになったので、だんだんと話しかけなくなっていった。母親曰く、父親は病気なのだそうだ。病気だから、いつも宇宙人みたいな事を言っているらしい。優は父親が、宇宙人みたいな事を言っているのを見た事はないが、何となく恐ろしい病気のように感じていた。病気が治れば、母親と父親は敦の家の両親みたいに、楽しくおしゃべりをしてくれるのだろうか。敦の家から帰って来た時優は、時折このような事を考える。

 翌日、幸則はまたたくさんのお菓子を持って敦の家にやってきた。すでに敦の家でゲームをしていた優は、昨日の違和感を思い出していた。
幸則の家は父親がいなくて、母親はいつも働きに出ていた。忙しいのか、学校や街中で顔を見る事もほとんどなかった。優が最後に見かけた幸則の母親は真っ赤な口紅を塗っていて、子供ながらに話しかけにくい人だなと思った事を覚えている。
「今日もパラダイスになっちゃうなー!」
 優が、幸則の母親の事を考えているうちに、昨日と同じように「パラダイス」の合唱が始まった。合唱をしたり、お菓子を食べたりしながら、なんとなくダラダラとゲームを続けた。
 五時十分になると、敦の母親がやってきてドアの前で声をかけた。今日はパートの日ではないらしい。
「もう五時過ぎてるよー。帰りなさーい」
 四人は顔を見合わせて敦の部屋を出た。
「持って帰りなよ」
 敦が幸則の持ってきたお菓子の残りを差し出した。残りと言っても封が空いていないものが五つほどある。幸則は「優君にあげる」と言って、優に全部手渡した。優は少しだけ母親に怒られるかもしれないと思ったが、そんな事よりたくさんのお菓子が嬉しかった。
 家に帰ってから優はすぐに自分の部屋でお菓子を食べた。なんとなくゴミはクッションの下に隠す。トイレに行って戻って来ると、部屋のドアが開いていた。胸がざわつき、嫌な予感がする。
母親がお菓子の袋を手に持っていた。
「これ、何?」
「貰った」
「誰に?」
 優が黙っていると、母親が続けて口を開く。
「本当の事を話しなさい」
「ひ、拾ったお金で買った」
 優は何故だかとっさに嘘をついてしまった。お菓子を貰った事は悪い事だったのかもしれないと、幸則の事を思い返していた。
「どこで? いくら拾ったの?」
 考えている間に、母親から次々と質問がくる。
「たっちゃんが拾ったから何円かは知らない」
 優は自分でも「たっちゃん」という名前が出てきた事に驚いた。母親から「達也君とまた遊び始めたの?」と聞かれた時は、おしっこが漏れそうな感覚に襲われた。本当の事を言うしかないと思った。
「ゆ、ゆきのりが、く、れた‼」
「万引きしたの?」
 母親の思いがけない言葉に、優は心底驚いた。幸則は万引きしていたのかもしれない。そこで初めて最初に幸則がお菓子を持ってきた時の違和感の正体に気が付いた。
 母親はいくつもいろんな質問をしてくる。考える速度が追い付かず、優は今起きている事の把握ができない。一生懸命話そうとしても、どうしても言葉に詰まってしまう。精一杯質問の内容を考えながら、頷いたり首を振ったりしたけれど、肝心の言葉が出てこなかったせいで、いつの間にか自分がスーパーで万引きしたという事になってしまった。
 スーパーまで直接謝りに行く事になった時には、優の涙は止まらなくなっていた。強烈な頭痛がする。けれど、自分が万引きしたかもしれないお菓子を食べてしまったのは事実だった。なぜこんな事になってしまったのか、自分でもよく分からない。
 その日の夜、優はなかなか眠れなかった。やっと寝付いて一時間程経った頃、また目を覚ましてしまった。後頭部のズキンという痛みで、昼間起きたショッキングな出来事を思い出す。頭の奥から涙がこぼれそうになる。幸則が万引きしたかもしれないお菓子のせいで、自分はスーパーに謝りに行く事になってしまった。来週、どんな顔をしてみんなに会おう。もしかしたらみんなもうこの事を知っているかもしれない。
万引きしたお菓子を貰うという事は、たぶん正しくない事だ。けれど優は万引きしたお菓子だという事を知らなかった。最初にお菓子を手に持った幸則を見た時に気付いた違和感を、見過ごした。これは自分が悪いのかもしれない。
母親ならきっとその違和感を見逃さない。母親はいつもそうだった。優に違和感があると、どういうわけかすぐに気が付く。それは良い時と悪い時があって、悩んでいる時なんかは「どうしたの」と聞いてくれるから嬉しい日もある。けれど後ろめたい事がある日、これは怒られるなと優が自分でもわかっている日に聞かれる「どうしたの」は恐怖でしかない。グルグルと、まとまらない考えが優の頭の中を巡る。
 優は二年前に事故を起こして、自転車を没収された。それ以来自転車には乗っていなかったけれど、一度だけ正和に借りて運転したことがある。すぐに事故の瞬間を思い出して自転車を降りた。けれど、帰宅するとどうしてか母親が怒っている。やっぱりどこで何をしていても、母親には何も隠せないのだと思った事を強く覚えている。本当に見ているわけではないとは思う。しかしなぜかわかってしまうのだ。きっと母親は、誰を見ても一瞬で違和感の正体をつかまえる。
 優はこのままではいつまでも寝られそうにないと思った。あんまり眠れないので、トイレに行ったついでにテレビをつける事にした。音量のダウンボタンを押したまま、テレビの電源をつける。それから少しだけ音量を上げる。こうする事ですぐに音が小さくなって、テレビをつけたのが母親にバレないという事を優は知っていた。去年の夏休みに思いついた、優の秘密の技だった。
 深夜にひとりで見るテレビは、悪い事をしているようでドキドキした。同時に、少しワクワクして、身体がフワフワして宙に浮いてしまうような不思議な感覚があった。そして何より、昼間起きた出来事を紛らわすのにぴったりな行為のような気がした。優はよくない考えを止めて、三十分ほどテレビを眺めていた。ふいに番組が切り替わる。時計は、深夜二時を指していた。
「大人だけ~の! パーラダーイース!」
 奇妙な音楽が流れ出して、優は驚いて目を丸くした。昼間、幸則が歌っていた歌にソックリだったのだ。自分も一緒になって歌ったけれど、この歌を知っていたわけではない。
 テレビは、間抜けなほど同じフレーズを繰り返している。歌っているのは売れない芸人の、ケチャップリンだという事を司会の男が説明した。ケチャップリンの背が低い方の人に、バンブー六時と言うテロップが出ている。
 優は急いでテレビを消して、自分の部屋に戻って布団をかぶった。見てはいけないものを見てしまったと思った。敦が言っていた、「子供だけのパラダイス」というのは、深夜番組の「大人だけのパラダイス」から取ったものだったのだ。すぐに、少し前の合言葉「ケチャップリン」も、「バンブー六時」も、ここから取ったものだと気づいた。合言葉は、敦が考えたものではなかったのだ。
 優は、幸則と正和の事を思った。二人はあの番組を知っているのだろうか。敦はたくさんの言葉を知っていて色んな事を思いつく天才だと思っていたのに、そうではなかったのかもしれない。

 翌週、優は小学校の保健室にいた。保健室は南校舎の一階にあって、茶色いベッドには、真っ白なシーツがかかっている。シーツを剥がすと、ベッドを覆う合皮のカバーはあちこち破けてほつれていた。硬くて冷たいベッドで眠るのと家で眠るのとは、大分勝手が違うなと優は思う。それでも嫌な事があると保健室に行く。
 雨が降った日と、本当に悲しい日は、頭痛が起きる。寒いと特に痛みが酷い気がしてくる。母親は、頭痛持ちの優にいつも「ママに似たのね」と言っていた。優がいつまでも「ママ」と呼ぶからなのか、母親の一人称もいつまでも「ママ」のままだった。
「何かあった?」
 ベッドを囲む白いカーテンを開け、優の担任が声をかけてきた。授業を抜け出して様子を見に来たらしい。
「寝不足?」
「多分」
「熱はなさそうだから、何かあったのかなーって」
 一瞬、最近自分の身に起きた事を思い出した。昨日もまた、夜中にあの番組がやっていないかと思い、テレビを見ていた。最近はあまり眠れない事も多い。
「うーん」
「お母さんと喧嘩した?」
「してない、と思う」
「悩みがあったら、相談するんだぞ。先生でよければ聞くから」
「うん」
 悩んでいるかと言われれば、そうなのかもしれないと優は思った。けれど、自分自身の気持ちや状況をきちんと誰かに伝えるような技術を持っていない。伝えた先に何があるのか想像する事も、上手に出来ない。
 保健室から教室に帰る途中、優はわざと南校舎の裏に出た。少しだけ周囲を見渡してから、上靴のまま花壇に入る。柔らかい土がザクザクと優の足を沈めていった。足をひねって、上靴の裏を見ると、波線の入った模様の中に土が詰まっている。胸がスーッと軽くなっていくような気がした。「パンジー」と手描きで書かれた花の名前札を、土の上で踏みつける。その隣で綺麗に連なっているパンジーは、サッカーボールを蹴るのと同じように蹴り倒していった。イライラと焦燥感が募っていく。パンジーの花壇は、土と花がグチャグチャになってしまった。それを見て、優は何故だかホッとした。
 北校舎の入り口で、上靴の裏についた土を落としていると、幸則が優の右肩に乗りかかって来た。幸則の足元では、裾の足りないジーンズから左右バラバラの柄をした靴下が覗いている。
「大人だけのパラダイス……」
いつものようにじゃれ合う前に、優はどうしてもこの話がしたかった。
「子供だけのパラダイスって、敦が考えたんじゃないって知ってた?」
 番組名を敦の合言葉に変えて質問をし直す。幸則はニコニコと笑いながら首を縦に振っている。
「何時に寝てる?」
「夜?」
 幸則は、目を丸くしながら聞き返した。口元はいつも通りニッと笑っている。
「夜の事」
「その日による。好きな時だよ」
「お母さん何も言わないの?」
「夜は仕事でいないから」
「そうなの」
 優は顎先だけで三回頷いた。
 幸則は、母親の目を盗んで大人の世界を楽しんでいたわけではなかった。寂しい時間を一人で過ごす為に苦し紛れにテレビをつけているのかもしれない。そう思うと、優は何故だか少し落ち着いたような気持ちになる。
「いきなり何だよ」
 幸則が、笑いながらもう一度優の肩を使ってジャンプする。左右バラバラの柄の靴下は、長さもバラバラだった。
 教室に戻ってもいつまでも上の空だった優に、何度か担任が注意した。
「教室に戻ったら、しっかり勉強する! メリハリが大事だぞ」
 響かない言葉が、教室の宙に舞う。
 優は授業のチャイムが鳴り終わった瞬間、走って学校を後にした。誰にも見つかってはいけないような気分だった。十五分ほど走ったら、息が上がって苦しくなった。いつもの公園にランドセルを置いて、その上に腰をかける。呼吸が整ったら、駅前の本屋に向かう。整えたはずの呼吸が自然とまた荒くなっていく。
 いつも静かな本屋は、人がほとんどいない。優はガラッとした店内をキョロキョロと見まわした。しばらく店内をうろつき、ずっと興味があった本を手に取る。ゆっくりと慎重に取り出したはずなのに、隣の本がドサッと落ちてしまった。
「ハッ」
 優の口から思わず大きな吐息が漏れる。心臓がバクバクと速くなる。けれどレジに目をやると、店員は誰もいなかった。急いで、着ていたシャツとズボンの間に、本を挟んだ。いつの間にか、手がびっしょりと濡れている。そこでやっと汗をかいている事に気付いた。今にも本を落としてしまいそうになりながら、もう一冊本をズボンの間に押し込む。走って店から外に出て、そのまま公園へと向かった。走っている間中、頭の中は真っ白だった。
 学校が終わってから間もないからか、公園に小学生は誰もいなかった。優は公園の奥にあるゴミ箱の近くで、シャツとズボンの間から二冊の本を取り出した。一冊は、ビニール袋を剥がして少しめくった後、ランドセルの奥底に仕舞った。もう一冊は、見たかった部分のページを破り取って、残りは公園のゴミ箱に捨てた。
なぜだか優は全身が充足感で満ちていた。フワフワと宙に浮きそうな感覚が、どんどん沸いて来る。夜中にテレビを見ているときの何倍もワクワクした。幸則もこんな気持ちだったのかもしれないと思うと、優は無性に幸則に会いたくなった。
 優が本の表紙を眺めていると公園の入り口の方から、二人分の足跡が聞こえてきた。慌てて本をランドセルの中にしまう。足音は、敦と正和だった。一瞬で、優のフワフワとした感覚はどこかに消えてしまった。さっきゴミ箱に捨てた本が二人に見つかったら、何を言われるかわからない。そう思うと、うまく笑えない。優はぎこちない表情のまま、ゴミ箱から離れて二人に近づいた。
「優、校舎出るのめっちゃ早かったなー! 一緒に帰ろうと思ったのに」
「あれ、まだ家に帰ってないの?」
 正和が優のランドセルを見て尋ねた。
「あー、うん。今から帰るとこだから」
「なんだよー、まだ帰ってないのか。早く帰って遊ぼうぜ」
 優は顎先だけで三回頷き、急いで公園を後にした。今日はすぐに家に帰れる気分ではない。本当は幸則に会って話がしたかったけれど、どこにいるのかわからないので、北公園から十五分程歩いたところにある南公園に行くことにした。歩いているうちに、どこかに行ってしまったフワフワが戻って来た。優の口元が少しだけ緩む。
 南公園は、北公園と違って遊具があまりない。広々とした空間に、二つの鉄棒とベンチが三つ並んでいるだけだった。優はベンチに座って、ランドセルを降ろした。
 優は万引きをした事で、自分自身が前とは違う何かに変わったような気がしていた。いつも面白い言葉を考える敦よりも、すごい存在になれたような感覚だった。幸則と自分はこっち側で、敦はあっち側、というような事を考えた。万引きという行為は、普段遊んでいる時には感じられないスリルがあった。
 母親はよく「成功体験」という言葉を口にする。成功体験を積み重ねる事で自分に自信が持てる、というような話だったと思う。言葉の意味がわかっても、どういう事なのか優は理解に至っていなかった。
 ランドセルの中を覗いてみると、新品の本が入っている。母親に、「あれが欲しい」と言う事を伝えなくても自分の力で物が手に入った。これは成功体験に当たるのかもしれない。けれど、この事は絶対に大人に話してはいけない。これこそ、子供だけのパラダイスじゃないか。そう思い至った時、優の口元には自然と笑いがこみ上げていた。
「わ、気持ちわりい。何笑ってんだ、お前」
 突然後ろから声をかけられて、優は息が止まりそうな程驚いた。
「たっちゃん、久しぶり」
 振り返ると、ベンチの後ろに達也が立っていた。優は万引きした本を持っている事がバレないようになるべく冷静を装った。自然な声で話せたような気がした。
「何笑ってんだよ」
 優の声のトーンとは違って、達也は怪訝な顔をしていた。「いじわるになっちゃった」という自分の言葉を思い出す。
「いや、ちょっと……」
 言葉に詰まる優を遮って、達也は吐き捨てるようにこう言った。
「こいつんちの母親、頭おかしいからな。叔母さんが言ってたんだ。ちゃんとしてない人なんだって。関わんない方がいいぜ。俺、こいつが嫌で北公園行くのやめたもん」
 達也の後ろからヒョコッと、男子が顔を出した。見たことのある顔だが、優が名前を知らない子だった。
「ふ~ん」
名前も知らない達也の友人は、興味がなさそうに適当に相槌を打っている。
「たっちゃん、なんでそんな事言うの」
 心臓が身体全部に行き渡ったのかと思うくらい、優の全身はバクバクしている。
「何かあったの」
 優は両手をギュッと握って、精一杯、母親に言われた通りの言葉を口にした。握った両手は、汗でびっしょりと湿っている。
「気持ち悪いんだよ」
達也は吐き捨てるように言った。
 優は、何故そう言われたのか理解が出来ないままベンチに座っていた。
おばさんって誰だろう。親戚のおばさんという事なのか、近所のおばさんなのか。達也と一緒に遊んだ時の事を思い返してみたけど、思い当たるような人は誰もいなかった。優は何もわからないまま無性に胸の奥がチクチクと痛むのを感じた。パンジーの花壇を、めちゃくちゃに踏みつけたいと思った。 
 しばらくの間、優はベンチでボーっと座っていた。何となくもう帰りたいと思った時、自然と足は家に向かっていた。ランドセルを正面に背負って、帰り道を歩く。目の前に見える景色はいつもと変わらないけれど、いつもよりずっと足が重い。身体が浮きそうなくらいフワフワしていた感覚はどこへ行ってしまったのだろう。
 家から一番近いコンビニに差し掛かった時、優はふっと父親の事を思い出した。父親は会社に行く前にいつもここで飲み物を買っていると言っていた。なぜそんな話になったのか思い出せないけど、その時珍しく母親が笑っていたような気がする。

 父親の名前が「誠也」ではなく「誠」であるという事を優が知ったのは、葬儀の日だった。
 父親が亡くなった日、優の部屋の座卓の上には書き置きがあった。紙いっぱいの大きな文字で「大丈夫」という言葉が敷き詰められていた。それを見て優は、母親がおかしくなってしまった事がはっきりとわかった。
たっちゃんは、こうなる事を知っていたのかもしれない。

第二章『ママの書置き』終。

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第一章【漆の汁椀とマヨネーズ】
第二章【ママの書置き】
第三章【泥棒のいる家】
第四章【ベビーブルー】
第五章【クレプトマニア】
第六章【二人のマコト】
第七章【私のアドニス】
第八章【マザーコンプレックス】

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ichinooikawa
編集・ライター・ステップファミリー・ホームパーティーマニア。猫と夫と息子と娘。20時以降は飲酒している。夫と漫画が大好き。