マザー・コンプレックス

ベビーブルー

 徳島栞が、自分は人見知りだという事に気が付いたのは、中学二年生の時だった。父の母、つまり祖母の都合で他県に引っ越す事になり、突然転校生になってしまったのだ。それまで栞は自分がどのような人間なのか考えた事すらなかったが、転校初日で人とうまく話せないという事に気がついた。
 緊張せずに中学校に通えるようになったのは、転校から三ヶ月ほど経った頃で、クラスの大人しい女子という分類に入っていた。特段いじめられるような事はなかったが、転校生として過ごした中学校生活は地味に息苦しいものだった。
 転校先のスクールデスクは、前の学校のものと違ってガタガタと音を出す。彫刻刀で掘られたような傷が目立つ、無骨なものが多かった。古めかしい校舎も、扉のついていないロッカーも、栞の気持ちを少しずつ沈めていった。
 あまり気の合うとは言えない友達と多くを話す事もなく、栞はいつも本を読んでいた。そのまま、いまいち馴染めないで中学校生活が終わった。それ故に、高校では中学時代の自分を挽回しようという気持ちが強かった。「何かを変えたい」という思いがあったからか、高校の入学式はこれまでの人生で最も緊張した。
「ついてるよ」
 栞のブレザーの襟についていた桜の花びらを手に取りながら、隣の女子生徒が話しかけてきた。切れ長の目にポニーテール、水色のシュシュが目立っている。栞は、派手な女の子に声をかけられたと思った。突然の事に返事を詰まらせていると、女子生徒はにっこりと笑って話し続けた。
「高校、緊張するよね。私も普通にしてるけど、実は緊張してる」
 女子生徒は、顔を少しだけ栞の方に近づけて内緒話をするように口の隣に右手を添えた。綺麗な、縦長の爪だった。
 高校生って感じだ、と栞は思った。転校先の中学校にも、前の中学校にも、こんな距離感で話しかけて来る子はいなかった。
「昨日の夜からずっと、緊張してるの」
 大きく息を吐きながら話した為、早口になってしまった。栞は無意味に首を上下に振って頷く。
「手の平に、ハートマークを描いて飲み込むといいよ」
「ハートマーク? 人じゃなくて?」
 栞は少しだけ首を横に傾けた。人という字を手の平に書くおまじないは、幼稚園の発表会の直前に、母が教えてくれた。ハートマークを描くと言うのは、聞いた事がなかった。
「そう、ママが教えてくれたの。人って書くより、可愛いでしょ? 好きなものを、飲み込めばいいんだって」
 そう言って、女子生徒はハートマークを手の平に描いて、大げさに飲み込んで見せた。オーバーリアクションがとてもよく似合っている。母親の事を「ママ」と呼ぶのも、新鮮な感じがして可愛らしい。思わず栞の顔に笑みが零れた。
 女子生徒は、日渡加奈といった。加奈の話しやすい雰囲気に、栞の強張った顔が緩み、スムーズに言葉を返す事ができた。ずっと張りつめていた糸が切れて、緊張が少し収まっていた。
 最初のホームルームの後、加奈は校則のことで早速担任から呼び出しを受けていた。加奈が頭の高い位置で結んでいる水色のシュシュは、校則違反という事らしい。
「可愛いのに、だめなんだ」
 注意をされたのに、悪びれる事なく初対面であるはずの担任に話しかけている。あまりにも軽快に話しているので、入学前に担任と会う機会があったのかと栞は思った。
「規則だからな」
「可愛くても?」
「可愛くても」
 教師の言葉を聞いた途端、加奈は声をあげて笑いだした。
「先生も可愛いとは思ってはいるんだね」
 大げさに手を叩きながら加奈が話し続ける。担任はただ加奈の言葉を復唱しただけなのに、それがどうやらとてもツボに入ってしまったらしい。栞は遠目にその様子を見ていて、自分とは違う世界の子だと思った。
 それなのにどういうわけか、加奈は栞をやたらと構った。移動教室の時はごく自然に隣を歩いて、たわいもない話をした。休み時間には、ほかの友達を栞の席まで連れてきて一緒になって話す事もあった。栞はあまり上手いコミュニケーションが出来ていないように感じていたが、加奈はそんな事を少しも気にしていないようだった。
 高校の入学式以来、栞は自宅で母に今日の出来事を話す習慣が出来た。いつもキッチンに立っている母が夕飯の支度をしている間、隣に折り畳みの脚立を置いてその上に座る。キッチンカウンターに両腕を乗せて、料理の手順を見ながら話をする。栞はこの時間がとても楽しみだった。
 思い返してみれば、小学校低学年の頃までは母に学校で起きた出来事を報告していた。学年があがるにつれていつの間にか、報告したいような出来事がなくなったのか、あまり話さなくなっていった。栞は、報告したいと思える学校生活が自分にやってきた事を嬉しく思った。
「加奈ちゃんは栞ちゃんの事、お気に入りなんだね」
 母がそう言った時、栞は何故だか耳と顔が真っ赤になった。

 入学式から二週間ほど経った頃、クラスではすっかりグループが出来上がっていた。明るくて人懐っこい加奈と、天真爛漫の万由子、穏やかな性格の萌絵。四人で行動する高校生活は、中学校とは比べ物にならないほど楽しい日々だった。自分とは違う世界の人だと思った三人の中にいる事は、最初こそ違和感が強かったが、一週間も経てばそれが当たり前になった。栞は日々、華やかな気持ちで高校に通った。
「七組の天使君、見た事ある? 超かっこよかった! 超かっこよかった!」
 いつも話題に事欠かない万由子は休み時間が始まった途端、教室中に聞こえるくらいの大きな声で話す。形容詞を二回繰り返すのは、万由子の癖らしい。語尾にびっくりマークがついたような、テンションの高い喋り方をする。
「天使って言う名前なの?」
 トレードマークの八重歯を見せながら、萌絵が訊ねた。
「違うよ! あんまり綺麗だから、天使君って呼んでるの!」
「万由子のイケメンレーダーが早速働いたんだ。何系?」
「ジャニーズでもエグザイルでもない感じ。とにかく顔が超綺麗なの! 超綺麗なの!」
 万由子は形容詞を二回繰り返す。両手を拝むようなポーズをしながら、あらぬ方向を向いている。
「みんなで、見に行く?」
 加奈の提案に、万由子は両手を大げさに広げて掌を見せた。
「天使君、昼休みに六組に行くの! その時、何食わぬ顔をして見に行こう!」
 男の子が出てくる会話の時、栞はいつもニコニコと笑って三人の話を聞いていた。その話題が苦手だという訳ではなく、単にどういう反応が正しいのかわからなかった。それでも、三人の話はいつもテンポがよく、聞いているだけで楽しかった。
 高校の校舎は綺麗で、新しい匂いがする。木造りだった小学校や中学校の校舎とはまた違った雰囲気だった。栞は新しい廊下を四人で歩くとき、少し得意げな気持ちになる。二週間しか履いていない上靴が、キュッキュッと小気味の良い音を出す。
「しーちゃんは、どんな人を好きになるのかな」
 七組に向かう途中の廊下で、加奈が栞に話しかけた。踵を踏みつぶした上靴で、クルンッとターンをして栞の方を向く。加奈は「しーちゃん」とか「しーたん」とか、好きなように栞の名前を呼ぶ。
「私は多分、かっこいい人とかそうじゃない人とかあんまり関係ない気がする」
「マジで! じゃあ、彼氏がブサイクでも良いって事?」
 万由子が楽しそうに栞の顔を覗いた。膝より少し長めの万由子のスカートが栞に当たる。
「わかんないんだけどね。人を好きになった事、ないから」
 栞は少しだけ口の端をあげて、小さく首を横に振った。
「マジで! 私なんかもう好きな人ばっかりで大変なのに!」
「万由子としーちゃんは、人種が違うから」
「そうだね、男好きが同じグループに二人もいたら大変だもんね」
 萌絵の言葉に、四人みんなが笑った。
 七組の“天使君”は、万由子の言った通り本当に綺麗な顔をした男の子だった。「本当に天使みたい。ギリシャ神話に出てきそう」という萌絵の言葉を聞いて、万由子は自分の事のように誇らしげだった。

 栞の通う高校では毎月第三金曜日の六時限目、頭髪検査が行われる。頭髪検査という名目で、髪の毛だけではなく、眉毛やスカートの丈まで、先生たちがひとりずつ生徒を確認していく。校則に違反している生徒には、違反切符と言う不名誉なものが渡され、切符の枚数に応じて罰が用意されていた。栞が検査に引っかかる事はなかったが、検査中の窮屈な雰囲気が苦手だった。そこまでしておしゃれをしたいと思う生徒の事も、そこまでして生徒を取り締まりたい学校側の事も、どちらも理解し難いものに思えた。
 頭髪検査の日の休み時間はいつもトイレに派手な生徒が集まって、鏡の前で髪や眉毛を整えている。派手と言っても校則が厳しいため、化粧やヘアカラーができるわけではない。その為垢ぬけて見えるのは本当に顔立ちが美しい子だけだった。栞はトイレで確認する事は特に何もなかったが、仲の良い三人の後をついて一緒にトイレに行く事が多かった。
「校則、本当どうにかなんないのかね」
 眉毛の方向を櫛で整えながら、万由子は鏡に向かってため息をついている。
「毎月毎月、やんなっちゃうよぉ」
 萌絵は、いつも流している前髪をアメリカピンで留めながら口をへの字にしていた。
「ねえねえ、今日私、眉毛すっごい生えてる。私を愛するママでも、さすがにこれは笑っちゃうと思うわ」
 眉毛を指さし、笑いながら加奈が言った。
「あんたは顔が可愛いからいいじゃない」
 突然、万由子が語気を強めた。会話に入らずに眺めていただけの栞は、驚いて鏡越しに万由子の顔を見た。万由子が、加奈の事を“顔が可愛い”と思っていた事にも驚いた。加奈は確かに整った顔立ちをしているが、切れ長の目と薄い唇は、誰が見ても美人というわけでもない。それに、万由子が容姿を褒めるのは、いつだって男子ばかりだった。女子の事はどちらかというと常に敵視しているような印象だった。
「万由ちゃんって加奈の事、可愛いと思ってたんだぁ」
 萌絵が柔らかい声で言った。栞が思っていた事、そっくりそのままだった。少し空気が和む。
「思うでしょ、そりゃ。てか何、その話」
「いや、なんとなく万由ちゃんってそういう事思っていないのかなって感じがしてた」
 萌絵のフォローに、万由子は返事をしなかった。栞は慌てて会話に入った。
「加奈ちゃんも万由ちゃんも、綺麗だよ」
 発言した瞬間、空気がシンと静まったのがわかった。栞は自分がから回ってしまったのではないかと不安になった。胸の奥底がチクンと痛む。
「しーちゃん、ありがとうー!」
 空気をかき消すように、いつもより少し高い声で加奈が言った。栞の方を見て唇の端っこをキュッと上げて微笑んでいる。
 トイレの入り口にある横長の大きな鏡には、廊下を歩く生徒たちが映り込む。
 万由子はさっさとトイレを出て、体育館の方へとひとりで歩いて行った。膝下のスカートから出ている足は、少し外向きになっている。いつも踏んでいる踵を元に戻して、きちんと上靴を履いていた。
 栞は、ドキドキしていた。万由子が急に声を荒げたからではない。誰から見ても加奈が魅力的だという事を、初めて認識したからだ。
 頭髪検査が終わると、万由子はいつも通りに加奈に話しかけていた。二人が同じように上靴の踵を踏んで歩いているのを見て、栞は少しホッとした。

 翌日、加奈は早速水色のシュシュをつけて登校していた。左側に髪を流して、緩めに結んでいる。
「加奈ちゃん、水色のシュシュ可愛いね。入学式の時もつけてたよね」
「そうだった?」
 入学式の日に担任に注意された事をそもそも忘れているのか、忘れたふりをしているのか、どちらなのかわからない。けれど、頭髪検査の翌日だったので、加奈が確信犯なのは確かだ。
「うん。その時も、可愛いなあって思ってたんだよ」
 加奈は左側に流している髪の毛の束を右手で支えて、左手で水色のシュシュを、シュルッと外して栞の掌の上に置いた。
「あげる」
 思ってもみない展開だった。加奈の大人っぽい仕草に、栞の声が上ずる。
「い、いいの?」
「うん。ベビー・ブルーだよ。水色じゃなくて、ベビー・ブルー。ママに教えてもらったの」
 栞は右手の下に左手を重ねて、大切そうにシュシュを持ち直した。
「嬉しい、ありがとう。大切にする。髪の毛、伸ばさないと」
「伸びたらつけてきてね。しーちゃんに似合うと思うよ」
「学校じゃ、注意されちゃう」
「可愛いのにね」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「可愛いのにね」
栞は、加奈の言葉をもう一度繰り返した。
 初めて聞く色の名前は、特別な言葉のように感じた。ベビー・ブルー。一度も口にした事がないとても素敵な響きだと思った。ひとりになったら声に出して言ってみようと思うと、栞はまた胸がドキドキして来る。早く家に帰って母にこの事を報告したかった。帰り道は、自然と少しだけ早歩きになった。ハートマークとベビー・ブルー。加奈の母親はおしゃれで可愛いものばかり加奈に教えてくれる。漫画に出てくるような素敵なお母さんなのだろうな、と栞は思った。
「ただいま!」
 栞は息を切らせて玄関のドアを開けた。キッチンに向かう途中、ふいに父の姿が見える。父は、いつも居間の奥の畳の部屋で横になっている。Tシャツに、ヨレヨレの下着姿。栞は複雑な気持ちになった。明るくて社交的な母と比べて、ぶっきらぼうな父と会話する事はほとんどなかった。高校に入ってからよく聞くようになった男子の話があまりよくわからないのは、父とのコミュニケーションがとれていないからではないかと考えた事もあった。引っ越してからは父方の祖母も一緒に住んでいたけれど、栞は祖母の事も苦手だった。
 気持ちを切り替えるように手首に巻いたシュシュを見る。「ベビー・ブルー」と小さく口に出す。転校して以来あまり好きになれなかったこの家で、ベビー・ブルーのシュシュだけが鮮やかに色を持っているような気がした。
 キッチンに立っていた母はいつものように栞の話を聞きながら、「うん、うん」とか、「あら素敵」といった小気味のいい相槌を打った。そして話の途中にまた、こう言った。
「加奈ちゃんは栞ちゃんの事、お気に入りなんだね」
 栞は、その言葉を母から聞きたくてベビー・ブルーのシュシュの話をしたのだと思った。
「髪を伸ばして、加奈ちゃんと同じくらい長くなったら結んでみるね。それまで色が褪せたり、なくなったりしないように、大切に閉まっておく」
 栞は、食器棚の奥に並べてある貰い物のチョコレートの缶を取り出した。ベビー・ブルーと姉妹のような色をした小さな缶。中にシュシュを入れると、より一層おしゃれで可愛いものに見える。横目で見ていた母が、「あら、素敵」と、笑った。
 母は、いつも笑顔だった。所謂二世帯住宅に住んでいながら、愚痴を零したのを栞は見た事がない。家では四六時中ヨレヨレの下着姿の父は、お世辞にもいい男とは言い難いので、母に救われていると栞は感じていた。父の母、つまり母にとっての姑は嫌な人ではないが、時折悪気のない毒を吐く。たくさんのストレスを抱えていても不思議ではないのに、それでも母はいつも笑っていた。
 栞は母と話をしていると、現実以上に楽しい学校生活を送っているような気分になった。ベビー・ブルーのシュシュは、自分が思っている以上に素敵だし、加奈とも、もっともっと仲良くなれるような気がしていくのだ。
 
 制服のコートを羽織るようになった頃、栞の髪は肩よりも長くなっていた。毎日のように思い出して、でも触る事もできなかったベビー・ブルーのシュシュ。
 やっと結べるかもしれない、そう思うと自然と栞の顔に笑みが零れた。洗面所に立って、シュシュがしまってあったチョコレートの缶を開けてみた。ワクワクしながらシュシュを使って髪を結ぶ。けれど、鏡に映ったポニーテール姿の自分は、思っていたものと全く違う。栞は口をキュッと強く結んだ。
 全然、似合わない。それに、髪が緩んでうまく結べない。すぐにシュシュを引っ張って髪をほどいた。今度はブラシを使って丁寧に髪の毛をといてから、ヘアゴムで結んでみる。その上にシュシュを重ねると、さっきより少し良くなった。何度かそうやって結びなおしているうちに、ポニーテールのコツをつかんだ。
 加奈も上手にポニーテールが出来るようになるまで、何度も練習したのだろうか。器用な加奈の事だから、一回目からうまくいったのかもしれない。
 しかし、ヘアスタイルが上手に出来ても、どうしても違和感があるのが眼鏡だった。本を読んでいる事が多かったせいか、栞の目はいつの間にか悪くなってしまった。眼鏡をかける事に抵抗はなかったけれど、シュシュと眼鏡は似合わない。
 栞は母に相談して、コンタクトレンズを作って貰おうと考えた。母はキッチンで夕飯の支度をしている。少しばかり緊張しながら栞が話しかけると、何故か母は嬉しそうだった。
「そうと決まったら、すぐに行かなくちゃね」
 母がベージュのエプロンで手を拭きながら、口角を綺麗に上げる。栞は心がポカポカと温まるような気がした。きっと、うまくいく。
 翌週母は、栞を眼科へと連れて行った。眼科で診察を受けるとすぐにコンタクトレンズが手に入った事には、少し驚いた。慣れないレンズに瞬きをしながら、シュシュをつけて学校に行く自分を想像する。嬉しいような照れ臭いようなくすぐったさが、心地よかった。その日栞は、加奈はもちろん、万由子と萌絵がなんと言うか考えながら眠った。
「めっちゃ可愛い! コンタクト似合ってるよぉ」
 コンタクトレンズとシュシュをつけた栞に、最初に声を掛けて来たのは萌絵だった。軽快な口調で話しながら、両手を広げて大げさに驚いたリアクションを取っている。後ろに万由子もくっついていた。
 栞はニッコリとほほ笑む。少しだけ耳の裏が熱くなった。
「デビューじゃん。いい感じ、いい感じ!」
 顔を上下に揺らしながら、万由子が言った。デビューというのは、万由子がよく使う言葉で、急におしゃれを始めた子の事を指すらしい。万由子いわく、同じ中学で高校に入ってから急にデビューした子がたくさんいて、そういう人とはいつまでたってもあんまり仲良くなれないという話だった。悪気なくトゲのある言い方をするので、栞はなんと答えたらいいかわからない。いい感じ、というのはフォローだろうか。栞はほんの少し手に汗をかいた。
「ねー、今朝駅から校門まで犬に追いかけられたー!」
 教室のドアを勢いよく開けて、急に万由子の隣に加奈がやってきた。話を逸らすように栞の机をポンポンと叩く。加奈は必ず何かを言ってくれる。そう思っていた栞は、瞬く間に恥ずかしさを感じた。耳の裏から顔まで、お湯が沸騰したみたいに熱い。
「めっちゃビビった! 小さい頃噛まれてから犬苦手なんだよー体育より真剣に走っちゃった!」
「ウケる、ちょっと見てみたかったぁ。朝からお疲れさまぁ」
「お疲れだねー。てか今日一限目図書室で自習だってよ」
「やったね」
 加奈と万由子が手を挙げてハイタッチをする。その様子が、栞にはスローモーションのように見えた。スクールチェアから身体全部が浮いたような感覚だった。
 四人の中で話がポンポンと展開していくのは、いつもの事だった。けれど栞は自分のシュシュの事で精一杯で、会話にひとつも入れなかった。
 もしかしたら加奈は、シュシュの事なんて忘れているのかもしれない。あまりにも似合ってなくて、腹が立ったのかもしれない。どちらにしても、栞の目の奥に自意識の塊が過剰に押し寄せてくる。自分の行動が恥ずかしくて、顔から火が出そうになった。シュシュを外して、サッとカバンの中にしまう。はやく図書室に移動してしまいたいという思いから、足早に図書室へと向かった。
 私はやっぱり三人とは違うんだから、調子に乗ってはいけない。万由子がデビューって言ったのも、「間違ってる」と言う牽制だったのかもしれない。萌絵だって本当は似合ってないなって思っていたかも。
 栞は歩きながら、右手をギュッと握った。いつもは四人一緒に移動するけれど、今日はひとりで図書室の中に入る。筆記用具を端の席に置いて、奥の本棚まで歩いた。はじめてのコンタクトレンズ、ポニーテールの練習、はじめての校則違反。あんまりにもいっぺんに頑張りすぎてしまったのかもしれない。本棚と本棚に囲まれて、栞は小さくため息をついた。
「しーいちゃん」
 後ろからささやき声で、加奈が声をかけた。いつの間にかクラスメイトがほとんど図書室に移動している。栞は、意味もなく手に取った興味のない本を抱えていた。唇の端っこを少しだけ上げて、加奈が栞に近づいてくる。今までで一番、加奈との距離が縮まった。加奈は、栞のおでこをポンっと軽く手で押さえた。
 加奈の薄い唇が、栞の唇に触れる。冷たい。ふんわりとシャンプーのいい匂いがする。栞は驚いて全身が固まってしまった。心臓がバクバクする。耳の後ろが、熱い。
「ベビー・ブルー、やっぱり似合ってたね」
 加奈はにこりと笑って、別の本棚へと歩いて行った。ほんの数秒の出来事だった。クルンッとターンした足取りで、短いスカートが綺麗にはねあがる。
 人生で初めてキスをした。言葉も出ないまま、栞はなぜだか涙が出そうになるのを必死にこらえた。意味もなく手に持っていた本の表紙には「恋愛論」と書いてあった。表面に小さな傷がたくさん入った、古い本だった。恋という文字をみると、我慢していた涙がポロポロと零れ落ちた。

 その日の昼休み、加奈が天使君と付き合っていると聞いた。万由子が「大ニュース」と言って大はしゃぎで席まで来て、教えてくれた。

 万由ちゃん、それは悔しくないんだ。

第四章『ベビーブルー』終。

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第一章【漆の汁椀とマヨネーズ】
第二章【ママの書置き】
第三章【泥棒のいる家】
第四章【ベビーブルー】
第五章【クレプトマニア】
第六章【二人のマコト】
第七章【私のアドニス】
最終章【マザーコンプレックス】

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ichinooikawa
編集・ライター・ステップファミリー・ホームパーティーマニア。猫と夫と息子と娘。20時以降は飲酒している。夫と漫画が大好き。