マザー・コンプレックス

漆の汁椀とマヨネーズ 

「事件ですか? 事故ですか?」
 最寄りの警察署に繋がったであろうスマートフォンの向こうで、警察官がそう言った。
「夫を殺しました」
 物騒な自分の言葉。江本加奈は、それがスローモーションのようにゆっくりと相手に届いていくのを感じた。夫の死という非現実的な出来事に反して、やけに冷静な自分がいる事に気付く。
 優に手紙を書かなければ。警察官との電話の最中、ずっとそう考えていた。何か言葉を残してあげないと、あの子も苦しい思いをする事になる。

漆の汁椀とマヨネーズ

 食洗器には食器を均等に並べなければならない。全ての食器と食器の間に等しく空間を作り、熱湯と洗剤が入っていくようにする事で、汚れを綺麗に落とせるようになるのである。食洗器に入れてはいけないものは、漆の汁椀と、木製の食器、クリスタルグラス。入れるものと入れてはいけないものを仕分けして、流し台の上の食器が全て収まった時、気持ちがスッキリと軽くなるのを感じる。
 加奈は丁寧に、夕飯で汚れた皿を食洗器に並べていた。ダイニングキッチンの向こうでは、息子の優が急須にお湯を注いでいる。郵便局が企画している『春の自由研究』に応募する為、お茶の力について調べているらしい。
「優は実験のような事が好きね。今は何をしているの?」
「ウラジロガシの葉っぱを乾燥させて、お茶にしているんだよ」
「ママも飲んでみたい」
「ちょっと待ってね。飲む以外にも、洗浄力や消臭力もあるんだって。石鹸と消臭剤も作ったんだよ」
「もう色々と作っているんだね」
 優は幼い頃からキッチンに立つ加奈をよく観察していた。火や水、調味料を使って、本来あるべき物の形を変えていく作業に興味が尽きないようだった。『春の自由研究』に応募するのは、今年で三回目になる。
「そういえば今日達也君を見かけたんだけど、すごく背が高くなってたね。最近遊んでる?」
 瞬きをしながら優が首を振った。優は質問をされると、頻繁に瞬きをする癖がある。
「あら、なんで?」
「うーん。たっちゃん、変わっちゃった」
「なんで?」
「わかんない。前はもっと外で遊ぶタイプだったんだけど」
「そうよね、ママもそうだと思ってた」
「あんまり遊ばなくなって、それから、いじわるになった」
「意地悪って、どんな風に?」
 優は少し首を傾げて、加奈の目をじっと見た。言葉が出てこない事を察した加奈が、代わりに口を開く。
「急に意地悪になるって、何か嫌な事があったのかな。ママだったら、何かあったのって、達也君に聞いてみるかな」
 諭すように言うと、優は急須の柄に目線をずらした。
「優には優の、考えがあるんじゃないかな」
 そこで急に、夫の誠也が口を開いた。湯呑を片手に持ちながら左下を見ている。夫が加奈と目を合わせずに話を続けるのは、いつもの事だった。何度も瞬きをしながらボソボソと話す。
「優は、優のタイミングで動くんだよ」
 まだ何か言おうとしている夫の言葉を遮って、加奈が口を開いた。
「そんな事はわかってる。わかった上で、私ならどうするか?の話をしているんだけど」
 シンと静まった食卓で優は瞬きをしながら、人の顔を交互に見ている。
 突然に夫が話に入ってきて、空気が壊れる事はよくある事だ。加奈はここ数年、夫とは話が合わないと感じていた。出会って間もない頃は新鮮だったおおらかな性格と予想外の返答がいつからか不快に感じるようになっていた。
 過去に一度、夫の浮気を見つけた事があったが、別れを選ぶか散々迷って、結局一緒に生きていく事を選んだ。しばらくは死んでしまいたいくらい悲しかったのだが、あの時別れないで執着したせいで、こんな事になってしまったと思う。
 加奈が何度もフラッシュバックに襲われて泣き出しても、狂うように怒っていても、夫はあっけらかんとした態度で全く加奈の気持ちを見ようとしなかった。あまりにも傷つきすぎたせいで、干渉しない事が最善策だという結論にたどり着いてからは、出来る限り接触を控えるようにしている。
 夫は、それでも加奈に言葉をかけてくる。いつも、いつも見当違いな言葉を。最近では、自分が苛立っているから気に障るのか、本当に夫が見当違いの事を言っているのか、わからなくなって来ていた。
「お茶、出来た」
 優が急須のお茶を湯飲みに注いで、差し出した。

——小一の壁。
 毎年春になるとワーキングマザーたちの間で飛び交う言葉だ。延長保育で手厚く可愛がられていた子供たちは、小学校にあがると同時に突然社会に放たれる。
 小学校は遅くとも午後三時頃に終わる。両親が共働き世帯の場合、ほとんどの児童が放課後は学童と呼ばれる場所に通う事になる。夜の八時まで子供を預かってくれる保育園とは違い、学童は原則六時まで。
出版社に勤務している加奈にとって、六時までに仕事を終わらせるのは難しい事だった。しかし、優をひとりで自宅に留守番させる事はもっと難しいように感じた。長らく悩んだ結果、優が小学校にあがる前の月に、会社に在宅勤務を申し出た。
 加奈の予想通り、優の小学校生活はトラブル続きだった。コミュニケーションがあまり得意ではない為、度々友人といざこざを起こすのだ。叩いてしまった、度が過ぎたいたずらをしてしまった、癇癪を起こして動かなくなってしまったなど、担任から報告の電話がかかってくる事はしょっちゅうだった。行動範囲が広くなって、どこかに出かけたまま中々帰ってこない事も増えた。
 小学四年生にもなると、学童を嫌がるようになり、友達の家に遊びに行く事が増えた。五時半に帰ってくるという約束が守られる事はほとんどなく、加奈は何度怒鳴ったかわからない。仕事をした後に、大声を出して怒るという行為はとても疲れるものだった。もちろん、こういった話を夫に相談する事は、一度もなかった。
「優は繊細なんだよな」というのが夫の見解だった。いつも少しズレた言葉が出てくるからには、少しズレた感覚の持ち主だという事は理解できる。けれど、優は繊細なのではない。どちらかというと鈍感な方で、相手の気持ちが読めないので、いちいち口にする事をしないだけなのだ。それでいて衝動性が強いから、トラブルになりやすい。優が繊細だから起きているのではない。こういった小さな見解の違いは、加奈の中で大きなストレスだった。
 衝動的に動いてしまう優は、加奈が見ていないと、絶え間なくトラブルを起こす。その対処も、加奈がひとりで何とかしなければならない。
 いつしか育児は辛いものとなっていた。けれど加奈は、優よりも夫が憎かった。優と夫がよく似ているという事が、何よりも加奈を苦しめるのだ。顔だけでなく、好きな食べ物や、喋り方、極端な物の捉え方など、何から何まで二人はとても似ている。何度も逃げてしまいたいと思ったが、自分は母親であるという責任感がいつもギリギリのところで踏みとどまらせた。下唇をグッと噛みしめ、本当に逃げる事も優を叩く事も、絶対にしなかった。
 「母」というものは、果てのない強制力を持っている。幼い頃に何度も母に「大丈夫だよ」と言われた事は、呪いのように加奈に付きまとう。母に大丈夫だよと言われれば、どのような事でも、「大丈夫」だと思ってしまう恐ろしい呪いにかかっているのだ。
 逃げてしまいたいような事が起きた時、加奈はいつも口に出す。
「大丈夫」
いつも、抱えている問題はそんなに大した事はない。その内に本当に「大丈夫」だと思えてくる。

 優が小学校にあがるまでは、足繫く取材に出ていた。加奈は仕事でフリーペーパーを制作していて、対面で直接話すことの出来る現場の作業が好きだった。在宅勤務になってからは企画出しや編集作業を主に行っていたが、やはり現場に行かないとわからないような空気感というものがある。取材や打ち合わせにはなるべく自分が顔を出したいという気持ちがあったので、出来るだけ足を運んだ。
 その日も、来月の特集で載せたい飲食店の打ち合わせに向かった。ランチとディナーの間の客がいない時間に訪問して、夕方には自宅に帰った。
 帰宅後、加奈はすぐに優の部屋のドアが開いている事に気が付いた。部屋に入ると、仄かにお菓子の香りがする。カーペットの上に転がっていたクッションを手に取ると、見覚えのないお菓子の袋が複数枚出てきた。袋の一枚を手に取って眺めていると、トイレに行っていた様子の優が戻ってきた。
「あっ」
「これ、何?」
「貰った」
「誰に?」
 加奈の問いかけの後、五秒程の沈黙が流れる。加奈は優を座卓の隣に座らせ、自分も向かい側に座った。
「本当の事を話しなさい」
「拾ったお金で買った」
「どこで? いくら拾ったの?」
「たっちゃんが拾ったから何円かは知らない」
「達也君とまた遊び始めたの?」
「ゆ、ゆきのりが、く、れた!」
 どもった優の返答に、加奈は大きくため息をついた。息を吐ききると同時に心臓の動きが速くなる。
「万引きしたの?」
 先程とは、声色を変えて質問する。
「……」
「怒らないから」
「……」
「どこのお店?」
「……」
「近くのコンビニ?」
「……」
「悪い事だって、わかってる?」
 何を聞いても、優は返事をしない。
 加奈は、自分が必要以上にイライラしている事に気付いていた。無言で立ち上がり部屋を出て、冷蔵庫から取り出した水を飲む。目を瞑り大きく深呼吸をしてから、もう一度優の部屋に戻った。優は、変わらず同じ場所に座っている。
「着いて行ってあげるから、ごめんなさいしに行こうか。お金も払わないといけないしね。今すぐ行かないと、警察を呼ばれてしまうかもしれない。調べられたら、結局優がやったんだって、わかるんだよ」
 優の目から、涙がこぼれた。体操座りをしている身体をキュッと硬くして、小刻みに震えている。
 結局、優がどこの店で万引きをしたのか聞き出すのに、一時間半かかった。それは加奈がよく行くスーパーで、一緒に連れて行った事も何度もあった。泣きたくなるような気持ちを堪えて、二人で謝罪に向かう。数百円分のお菓子。たかがそれだけの為に自分がどれほど悲しい思いをしているか、優に何度も伝えながら歩いた。泣いているばかりで、優は何も言わなかった。
 スーパーのスタッフルームで、商品の代金を支払い、店主に子供だけで立ち入らないという事を約束した。優は、聞き取れないような小さな声で「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も呟いていた。
 何が悪いのかこの子はちゃんとわかっているのだろうか。怒られた事が怖くて謝っているだけではないか。万引きをするという事は犯罪なのだ。自分が犯罪者になってしまったのだという事を、わかっているのか。加奈はすぐにでも問い詰めたいと思ったけれど、よくない言葉が出てきそうな気がしてやめた。帰り道、優は加奈の三歩ほど後ろを歩いていた。
 こんな日は、誰かに泣き言を聞いて貰いたい。けれどそんな事はできない。夫に話したところで、より一層、腹が立つに決まっている。話を聞いてくれる人がいない。その事が、加奈をもっと惨めな気分にさせた。優は、帰宅するなり自分の部屋に閉じこもった。声をかける気力は出ない。
 加奈は鶏肉と玉ねぎを炒めて、簡単に親子丼の具材を作った。二日前に炊いた少し硬くなったご飯に具材を乗せ、サランラップをかけて電子レンジに入れる。優と食事を別々にとる時は、いつもなら書き置きを添えるけれど、書けなかった。
 食欲が出ず、キッチン上の戸棚から缶チューハイを二本取り出した。氷を入れたグラスの中に、二種類の缶チューハイを同時に注ぐ。片手で円を描くようにグラスを回転させた後、キュッと半分ほど飲みほした。甘い果汁の香りに紛れて、アルコールが体内に入っていく。加奈はスウッと息を吸って、肩を下げた。
 流し台の隅には、優が『春の自由研究』で作ったものが置いてある。歪で不安定な形をした石鹸。お茶が濁ったような色をしている。優に頼まれて一度だけ石鹸を使ってみたが、ちっとも泡が立たなくて、洗った気がしなかった。その時は手に付いた油が表面にまだついている感じがして、別の石鹸で洗い直した。優は「どうだった?」と真顔で加奈に感想を聞いて来たが、それ以来使う事はなかった。数日前の事だというのに、あの時優に何と答えたのかどうしてか思い出せない。
 缶チューハイをグラスで二杯飲んだ後、加奈は寝室に戻った。夫の姿は見当たらなかった。

 翌日はタイミングの悪い事に、先月からの約束で友人の萌絵が自宅に遊びに来る予定だった。優の部屋が隣接するリビングで友人と話をするのは、加奈にとって気が重い事だった。恐らく優も居心地の悪さを感じる事になる。
 来客に備えて掃除をしていると、キッチンのゴミ箱から夫の食事のゴミが飛び出ている。いつも同じ店の同じ牛丼。何故か夫は牛丼にマヨネーズをかけて食べる。牛丼以外にも、親子丼や唐揚げと、夫が食べ物にマヨネーズをかける基準はよくわからない。相手が夫でなければ気にならない事も、何故か夫となると加奈の頭の奥底をチクチクと刺すような苛立ちが沸いて来る。
「ハーブティーと、ビール。どっちがいい?」
「ビールかなぁ」
 萌絵は目を細めながら缶ビールを手に取った。萌絵と話をする時は、十中八九お酒の匂いがする。加奈の脳裏に、昨日飲んだ缶チューハイが浮かぶ。映像が流れるように、泣いている優の顔も一緒になって浮かんで来た。加奈は腹の前で両手を握り、息をすうっと吸った。
「この間、優がめずらしく友達の話をしてくれてね。保育園から仲良しの達也君、最近変わっちゃったんだって。だからあんまり遊ばなくなったらしい。優って、なあーんにもわかってないように思っていたんだけど、友達の変化とかわかるようになったんだぁって、感心した」
「男の子はあんまり喋らないよねぇ。でも優は名前の通り優しいから、実はいろんな事が見えているのかもよぉ」
 そう言いながら萌絵は、八重歯を見せてニッコリと笑った。
 優しい子が万引きを友達のせいにしようとするのか思うと、加奈は萌絵を責めたくなった。モヤモヤした気持ちを隠すように話を元に戻す。
「それでね、私だったら達也君に何かあったのって聞いてみるって優に言ったら、夫がいきなり話に入ってきたのよ。優には優のタイミングがあるって。そのタイミングの話、今言う?って。すっごい腹が立った。そんな事わかってるけど、その上で自分だったらどうするかを伝えてるだけじゃない?」
「あぁ、言いそう。言いそうだわぁ」
 萌絵は楽しそうに笑っている。
「いつも黙ってるくせに、口を開くと不快な事しか言わない。もう黙っててほしい」
 加奈もクスクスと笑いながら話を続けた。テンポよく萌絵が言葉を返す。
「でも男の人ってそんなもんよねぇ。大体空気読めない。もっと言うとぉ、夫婦ってそんなもん。言葉が噛み合っている夫婦の方が少ないよねぇ」
「そうなのよね。噛み合わないのって、いつも男の人。女の人はそんな事ないのに」
「うちは何かトラブルが起きると会話の最初に必ず、これはあなたを責めているわけではないんだけど……って前置きをする。じゃないとすぐ変な方向に解釈するのぉ。柊二ってすごく優しいんだけど、そのせいで、すぐに自信をなくしちゃうのよねぇ」
「わ、それはちょっと面倒だね。でも、優しいのはいいよね。うちと違って愛があるよ、愛が」
「そりゃあ、愛は、あるでしょ」
 目を細めて萌絵が笑った。萌絵はよく「柊二」の話をする。萌絵と柊二が良い仲だという事を、加奈は何年も前から知っていた。そしてそれがどんな男なのかも。パートナーの話はいわゆる鉄板ネタだ。不満はいくつも出てくるし、ある程度共感しやすい。加奈は、本当に話したい事がうまく出てこない時は、当て馬のように夫の話をしている。
 結局二人で、缶ビールと缶チューハイを三本ずつ飲んだ。昨日から気持ちが落ち込んでいた加奈も、夕方にはすっかり上機嫌だった。
「さっき加奈がトイレに行った時に優がひょっこり顔を出したから、ちょっと喋ったんだけど、しっかりしてきたよ。また男前になったね。モテるんじゃない?」
 玄関で帰りの身支度をしながら、ふいに萌絵から優の話が始まった。加奈は顔を動かさないままに目線だけを足元に下げた。グリーンのパンプスの隣に、茶色い革靴が並んでいる。革靴の中には、優がお茶で作った消臭剤がコロンと入っていた。
「全然、モテないよ。そういう対象の子じゃないっていうか……」
 加奈の語気が強くなった。しっかりしていないという事を説明しようと思うと、胸が詰まるような苦しさに襲われる。誰かに優の事を褒められると、決まって同じような感覚になっていた。褒められるような子だったら苦労していないという思いが喉の奥までやってくる。目の奥から、涙が出そうになった。
「加奈が知らないだけで、きっとモテてるんだよぉ」
 萌絵が八重歯を見せて笑った。
「いやあ……私が同級生だったら、好きにならないし、やっぱりそういう雰囲気の子じゃないから」
「でも優って優しいじゃん?」
「そうかな……」
「加奈が優しいから、優も優しい。私は二人が羨ましいよぉ」
「うん」
 加奈からそれ以上の返事は出ない。「納得できない」と反対意見をあげるような話ではないと、静かに深呼吸をする。萌絵は、万引きの話など知らないのだから。
「帰るねぇ。今日も楽しかったぁ! また連絡する!」
「私も、楽しかったよ」
 子育てには、解決しない問題を抱えたままいつも通りに生活しなくてはならない事が、多くある。今日の問題は今日中に解決したい加奈にとっては、なかなか難しい事だった。一日を無事に過ごせた事に、ホッと安堵する。
 加奈は酔った頭で、母の事を思い出す。母は細くて白い指をしていて、手を繋ぐとほんのりと温かかった。縦長の爪には、時折薄いベージュのマニキュアが塗ってあった。幼い頃は、母をとても女性らしく儚いもののように感じていた。大人になった今、なお強くそう思う。自分の手と母の手は違う。どんなにハンドクリームを塗ってケアしていても、ガサガサしていて柔らかくない。食洗器があると言っても、鍋ややかんは手で洗うからなのか、いつも少し荒れている。母は洗剤を使っても手が荒れない人だったのかもしれない……そんな人はいるのだろうか。
 優と加奈が手を繋いで歩いた事は、ほとんどなかった。よく走る子供だった優は、いつも加奈の周りをチョロチョロと動き回っていた。自分の手がいつも荒れているなんて、きっと優は一度も気付いた事がないだろうと、加奈は思った。

 スーパーに謝りに行った日から数日が経った。優は三日連続で門限を破っている。あんな事があったのにまだルール違反をするのかと、加奈は思う。
優が門限を守らない事には慣れているはずなのに、加奈はいつもよりイライラしていた。漆の汁椀を流し台の端に除けて、ガチャン、ガチャン、と音を立てながら食洗器に食器を並べる。
六時過ぎ、優がガタガタと音を立てて帰ってきた。門限についての注意をどのようにしようか迷っている加奈の隣を、足早に横切っていく。
「ちょっと待って。ランドセルの中、見せて」
「なんで」
「なんでじゃない。見せて都合が悪い事でもあるの?」
 優は黙っている。
「貸しなさい」
 無理矢理こじ開けたランドセルから、透明のビニール袋が出てきた。優は力一杯そのビニール袋を押し込んで、奥にあるものを見せまいと踏ん張っていた。
「いい加減にしなさい!」
 大声を出すと、優の力が弱まった。奥から出てきた雑誌には、大きな瞳の女性が描かれている。肌色が多く目につく女性の格好を見た時、加奈の心臓の音が聞こえるくらい脈を打っているのがわかった。途端に、自分でも驚くほど大きな声が出た。何を言っているかわからないくらいの早口で優を罵っている。言葉を選んでいる余裕がない。
 加奈の大声と同時に、夫がリビングのドアを開けた。ジッとこちらを見ている。加奈は、夫が今まで家にいる事さえ気が付かなかった。一層、イライラが募っていく。
「優と大事な話をしているから、誠也さんは食洗器に食器を入れてて」
 夫は、返事をせずに無表情でリビングの方へと戻っていった。
「どうしたの」くらい言えないものか。頭の奥から、余計に怒りが増していく。
 優は、駅前の本屋で漫画本を万引きしていた。「なぜ」「どうして」という問いには何ひとつ答えが返ってこないまま、商品と代金を持って謝罪に向かう。加奈は終始、奥歯を噛みしめていた。グッと踏ん張って顎に力を入れておかないと、足元から崩れていきそうだった。
 本屋の店主は、優ではなく、加奈に多くの言葉をかけた。中でも「お母さんがね、ちゃんと見ていてあげないといけないよ」という一言に、加奈はこらえきれなくなって涙をこぼした。
「すみません」
謝罪の言葉は、裏返った声に乗って、辺りを彷徨っている。加奈の頭の奥が、グラグラと不規則に揺れる。
 小学四年生の子供を四六時中見張るというのは、無理がある。仕事もせずに、子供のやる事を全て監視できる親なんて、いるのだろうか。私の母はそうしていただろうか。いつも優しかった母は、私を叱ったりしなかった。けれど、自分自身が叱られるような事をした記憶もなかった。どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
加奈の頭の中で、優と自分と母親の事が、回遊魚のように泳いでいる。
「もうあの本屋さんに行かない事」
「はい」
「自分のした事がどんなに重い罪なのか、しっかりと考える事」
 加奈の話に、優は返事をしなかった。それは加奈にとって、想定内の出来事であるはずだった。けれど、頭の奥がグラグラと大きく揺れる。
「黙っているって事は、考えないつもりなの?」
「考えます」
 また威圧的になってしまったと思った。よくない事だとわかっているのに、言葉が止まらない。
「この間スーパーで泣いてたのは、嘘だったって事だもんね。反省していたらこんな事しないよね。ママがじっと優の事を監視していないから、いけなかったのかな。これからずーっとずーっと、仕事もしないで、四六時中あなたの事を監視していたら、いいのかな」
 優はまた返事をしなかった。加奈は、もうこれ以上よくない言葉が出て来ないようにグッと唇を噛みしめた。身体の奥底から、小刻みに寒気が襲ってくる。
 シンと静まった空気の自宅に帰り着くと、玄関に並んだ革靴には相変わらず消臭剤が入っていた。
 加奈は何も言わずにキッチンに向かう。ショルダーバッグをフローリングに落とすように置く。洗い終わった食洗器を開けると、漆の汁椀にマヨネーズがついたまま、取り皿と一緒に重なっていた。
 頭が沸くように熱くなるのを感じる。殺意とほとんど同義のような怒りが、全身を包み込んだ。
「誠也さん!」
 加奈は無意識のうちに、大声で夫の名を叫んでいた。何もかも他人事のようにソファでだらしなく眠る夫が、頭の中に真っ白な靄をかける。
「大丈夫」
耳元で母に優しく囁かれた気がした。

第一章『漆の汁椀とマヨネーズ』終。

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第一章【漆の汁椀とマヨネーズ】
第二章【ママの書置き】
第三章【泥棒のいる家】
第四章【ベビーブルー】
第五章【クレプトマニア】
第六章【二人のマコト】
第七章【私のアドニス】
第八章【マザーコンプレックス】

ABOUT ME
ichinooikawa
編集・ライター・ステップファミリー・ホームパーティーマニア。猫と夫と息子と娘。20時以降は飲酒している。夫と漫画が大好き。