トイレの消臭剤には長年強い疑問がある。今ここで初めてこの疑問を人様にぶつけたいと思う。ほとんどの消臭剤には「香り長持ち1ヵ月」というような文言が入っているが、あれ、1ヵ月も持つか?私の体感では1週間が限度。8日経った頃には何の仕事もしなくなると感じているのだがどうだろうか。
長年抱えているこの問題のせいで、先日夜の21時に小池百合子の名前を叫ぶという事件が起きた。
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金曜日の夜。翌日に姪っ子たちが遊びに来るというので、私は徹底的に自宅を掃除していた。土曜日の朝からやってきて、夕方お風呂に入りたいのだという。姪っ子たちに気持ちよく過ごしてもらおうとトイレやお風呂場、洗面所を綺麗に磨き上げる。ふいに、トイレの消臭剤が切れていることに気がついた。夜20時のことである。今ならまだ間に合う、とイトーヨーカドーに自転車を走らせた。コロナ禍となってから外食の回数も減り、夜18時以降外に行くことがほとんどなくなった我が家である。20時にヨーカドーはかなり自分の体に鞭を打っている。
なぜか姪っ子がどうしても夕飯はカレーを食べたいというので、カレーの材料もあらかた買った。その後、同じフロアの日用品のコーナーに立ち寄って消臭剤を購入しようした。
そのときだ。消臭剤コーナーで『サワデー3つで500円』という文字が目に入った。しかし私はそれが安いのか高いのかの判断ができない。前述の通り、トイレの消臭剤とうまく向き合うことができていない人間なのである。18歳で一人暮らしをはじめてから16年間、ずっとトイレの消臭剤を買い続けているのに、どの子がよくてどの子がダメという知識がついていない。冷静に振り返ってみるととても非生産的な話である。18年もの月日が流れる間、我が子が生まれた。息子は今や赤ん坊から中学生に成長している。様々な経験を積んできたであろう彼の隣で、私は消臭剤についての知識をひとつも身に着けなかった。そしてこの知識のなさは、我が家に謎の空間をもたらしている。
消臭剤は匂いがなくなったことに気づいたらもう1つ追加する。しかし最初に置いた消臭剤の中の液体は当たり前のように全然減っていない。「香り長持ち1ヵ月」と謳っているからには、1ヵ月間はなくならないのだろう。効果のほどはわからないが捨てるのはもったいないので、2つ並べて置く。このように、常に2個も3個も置いてあるのが消臭剤であり、我が家のトイレだ。
何の話なのかわからなくなってきたが、とにかく私は消臭剤を異常に買い込む習慣がある。「サワデー3つで500円が高いのか安いのかわからないが、とにかくいっぱい欲しい」と思った。サワデーを使ったことはないので、本体1つ、詰め替え2つ、合計3つをかごに入れてレジに向かう。道中50mのサランラップと食器用洗剤、愛猫のおもちゃも併せてかごに入れた。
日用品コーナーのレジでは、小池百合子にそっくりな女性がマスクの奥でにっこりとほほ笑んでいる。私は心の中で(こんなところに百合子じゃん)と思った。
自分の話ばかりして申し訳ないが、私はレジ画面の数字をじっと見る習慣がある。というのも、スーパーにおいて3つで〇円というような商品は、バーコードで自動割引がされない場合があるからだ。この日も、サワデーが割引されないのではという点を懸念し、百合子が打つレジの数字をジッと見ていた。するとやはりというか案の定というか、一つひとつ個別に会計がなされていくではないか。198円という数字がテンポよく流れていく。
「あれ? すみません、これ3つで500円ではないんですか?」。
最初からちょっと疑っていた癖に白々しく声をかけた。
「詰め替えのものが3つで500円なんですよ。本体は少し高いんです」
「あら!すみません、じゃあ詰め替えをもうひとつ持ってきてもいいですか?」
「どうぞ~」
百合子はひとつも間違っていなかった。ほほ笑む百合子を背に、自分の間違いを素直に受け入れることができた。しかしやはりレジの数字をジッと見る行為は必要な習慣であると感じる。
時刻は20時50分。早く帰って掃除の続きがしたいと思った。大荷物を抱えて、自転車に乗る。およそ10分ほどの帰路。「明日は何をして遊ぼうかなぁ、姪っ子喜ぶかなぁ、娘喜ぶかなぁ」。子供たちの笑顔を思い浮かべると、ルンルン♪と音符が弾むような気持ちだった。
しかし自宅について事件は起きた。買い物袋の中に、サワデーの本体がない。私は絶叫した。声のボリュームをいつもの2倍くらいにあげて「嘘でしょう?」と言いながら買い物袋の中身を漁った。隣にいた夫は「どしたの?大丈夫?」といつものようにゆっくり喋っている。サワデーのことで頭がいっぱいの私に、夫の声は届かない。
ニンジンやじゃがいも、サランラップといった購入品を全て買い物袋からぶちまける。キッチンの床に様々な食品や日用品を並べてみても、どうしてもサワデーの本体は見つからなかった。慌ててレシートを確認すると、本体は会計に入っていなかった。
「あンの百合子がぁ!!!」
普段綺麗な言葉遣いを心掛けている私だが、このときばかりは暴言が出てしまった。まだまだ修行が足りない。どうやら百合子は私が3つ目の詰め替えを持ってきたので本体は必要ないと判断したようだった。私は豪速で怒りを露わにした。
「いやいや、最初本体持ってきたんだから、その客サワデー使ったことないでしょ?なんで本体を奪ったの⁉詰め替えだけ並べとけって?それはないだろ!」。それを聞いた夫は「普通はそこまで想像しないだろうねぇ」と言った。5秒くらいかけてゆっくり喋っていた。
本当に泣きそうだった。仕事で疲れていたのに、そこから一生懸命頑張って家を快適にした。それを他人に邪魔されるなんてどうしても許せない。そう思ったら、胸の奥がグラグラと沸騰していくのがわかった。
「もうやだ!!!」
「僕今から買ってこようか?」
喚く私に、夫が優しく声をかけた。この一言でハッとした。消臭剤の真髄に気づいてしまったのだ。
———トイレの消臭剤は、この優しい人を21時からヨーカドーに行かせるほど必要なものではない。
私は消臭剤を諦めることにした。
翌日、姪っ子を連れてきた姉が、「素敵な旦那さんと結婚してよかったねぇ」というので、「うん、昨日もすごく嫌なことがあったけど夫がいたから大丈夫だった」と話した。「え、何があったの?大丈夫?」と心配する姉に、なぜだかサワデーの話は出来なかった。
これ何の話?