思うこと

『ミサンドリー』男性嫌悪と向き合う。

 男性が苦手です。男性に対する怒りのようなものが常に根幹にあり、日常生活に大きな支障をきたしています。例えば、食事をする席で隣に集団の男性が来たら、店を移動します。距離感の近い男性がいると顔が引きつってしまう、エレベーターで二人きりになると心臓の音がはやくなるなどの反射的なものまで含めると、多種多様な支障が起きていると感じています。

 更に「男性が苦手」という意識は仕事にも影響しており、例えばミスをしたのが男性だった場合「男になんて頼んだからこうなってしまった」という感情が沸きます。女性の場合ですと「私の伝え方が悪かったのかな?ごめんなさい、もう一度確認しますね」というような気持ちになります。どちらの方が仕事ができるかということは関係ありません。同じくらいの能力だったとしても、相手の性別によって自分の感情の動きが変わってしまっているのです。この感情の動きはおそらく相手の男性にも負担を強いていることかと思います。

『ミサンドリー』という持ち物

 私の持っている感情は、『ミサンドリー』という男性嫌悪に分類されると思います。非常に辛く苦しい持ち物です。嫌悪感というのは、自分で「抱こう」と思って抱くものではありません。起きた出来事に対し、受動的に生まれた感情です。それが男性に対するものとなると、まだまだ男社会である日本で生きていくには非常に厄介な性質を持っていると感じます。
 私自身日本で生きていくためにこの感情に長らく蓋をしていたように思います。なぜならこの感情に気が付いたこと自体今年に入ってからなのです。けれど私には夫もいるし、息子もいます。男友達もおそらく多い方で、男性と全く喋れないというわけではないのです。

 以前Twitterで、「すべての女性はうっすらと男性が嫌い」という文言を見たことがあります。元ネタが見つからなかったので原文ママというわけではありませんが、これには非常にハッとするものがありました。私だけではないんだ、と思えたのです。けれど私はこのことを大きく公言することはありませんでした。なぜなら「他者への嫌悪感を公に示すことは悪いこと」だと認識しているからです。
 話したのはごく一部の親しい女性だけ。けれどその女性たちはみな同様の感情を持っていました。「私も男性が嫌い」「嫌な思いをたくさんさせられた」というような声を全員が共通認識として持っていたのです。これは友人とは似たような人ばかりが集まるというのもあるとは思いますが、それだけでもないように感じます。みんな、彼氏や夫、男友達がいる友人たちです。なぜみんな男性が嫌いなのでしょうか。

嫌悪感はどこからきたのか

 「私達、男に嫌な目に合わされすぎたよ、傷ついたんだ」というようなことを言った女性がいました。確かに私はこれまで男性に嫌なことをたくさんされました。いつだって私が嫌だと感じることは、男性が連れてきます。女性から納得のできない加害を受けたことは一度もありません。それらの嫌なこと一つひとつが、男性嫌悪に繋がっているのだと思います。

 男性から「男女は平等でない」という感情が見え隠れする瞬間が最もしんどいです。例えば私は昨年再婚するまでシングルマザーで、ワンオペで子供二人を育てていました。二人分の養育費を父親である男性から受け取っています。それを聞いた男性から「養育費ビジネス」というようなことを言われました。父親である人から養育費をもらう当たり前のことを、このような形でヤジる人がいるのです(ちなみに養育費は親の権利ではなく、子供の権利です)。子供が生まれるということには、男性と女性どちらもいないと成立しません。子育てには男女ともに同等の責任があるという考えが浸透していないのでしょう。
 私はこういった場面に直面すると「男女は平等である」という価値観をいまだに持つことのできない可哀相な人だと感じてしまいます。しかしここには「男女は平等である」と言いながら男性を見下している自分が存在します。非常に苦しい自己矛盾だと感じます。

『有害な男らしさ』とは

 自身の苦しさを分解して理解し、更に手放すためにいくつかの本を読みました。中でも最もわかりやすく、改めて今日本でどのようなジェンダーに関する問題が起きているのかていねいに書かれていたのが『これからの男の子たちへ』(太田啓子・著)という本です。 これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン amzn.to 1,408円(2020月10月02日 13:17 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する

 できれば日本人全員に読んでほしいくらいですが、今日は私自身が衝撃を受けた言葉を紹介します。

 『有害な男らしさ』。この言葉は、社会の中で男らしさとして当然視、賞賛され、男性が無自覚のうちにそうなるように仕向けられる特性の中に、暴力や性差別的な言動につながったり、自分自身を大切にできなくさせたりする有害な性質が埋め込まれている、という指摘をしています。1980年アメリカの心理学者が提唱したものだそうです。
 まさに私が男性に対して「苦手」だと感じる部分が、『有害な男らしさ』でした。乱暴な言葉遣い、女性の話に耳を傾けない、女性の人格を軽んじるなどのマンスプレイニングです。しかしこれは男性が生まれ持ったものではなく、学校や家庭などのあらゆる場所で「男なら」「男だったら」「男であれ」などという刷り込みに近いものから形成されたのだといいます。性差別構造が強い社会の中で、男性一人ひとりの個性を無視して形成されていったという話でした。

 これには息を呑むものがありました。これまで私は女性として弱者であり、またそれゆえに被害者であるという強い意識を持っていました。しかし男性もまた性差別構造が強い社会の被害者だったのだと気づくことができたのです。さらに、このような特性を持つ男性に対し嫌悪感を持つということは、ごく普通であるという自身への肯定にも繋がりました。この感情を公表するに至ったきっかけともいえます。

「男らしさ」の呪い

 実は私の夫は男性でありながら、私と同様にミサンドリーの意識を強く持っています。彼は気が優しく、言葉遣いが丁寧な男性です。人の話を聞くのが好きで、毎晩私とおしゃべりを楽しんでいます。その様子を見た友人は「女友達のようだね」と言いました。これは夫がいわゆるテンプレートな「男らしさ」を持っていないということを示しているかと思います。彼は男性社会で自身の個性を殺され、また「ホモソーシャル」に放り込まれ、「男らしさ」を強要され、自己矛盾を抱えながら男らしく振舞って生きてきたのです。今になって振り返ってみると、学生時代に男性と一緒になって男らしく振る舞った過去が息苦しいといいます。
 近くにこのような男性がいながら、男性もまた被害者であるという意識を持てなかったのは、私の持つ強烈な嫌悪感が原因だと考えます。

知識を持つということ

 知識を持っていない人は想像ができません。私は「有害な男らしさは社会によって後天的に形成されている」という知識がなかったがために、男性に対して慈悲の感情が一切沸かず、異常な嫌悪感を抱いていました。知識なさゆえの想像力の欠如です。もちろん、知識を得たからといってすぐに払拭されるような簡単なものではありませんが、これにより男性に対する感情の持ち方が変わっていくと考えます。できればこの先に自身がミサンドリーではなくなる現実というものを望んでいます。
 これからも知識を身に付け、また隠すことなく自身の感情や想いを公表していくことで多くの人が問題に気づき、やがて男女ともに生きやすい未来がくると願ってやみません。

 長くなってしまったので今日はここで終わりにしますが、また書きます。読んでくださってどうもありがとうございました。

ABOUT ME
ichinooikawa
編集・ライター・ステップファミリー・ホームパーティーマニア。猫と夫と息子と娘。20時以降は飲酒している。夫と漫画が大好き。