マザー・コンプレックス

マザー・コンプレックス

 夫殺しの被疑者として留置場に収容された加奈の元に、白髪の男性が面会にやって来た。
 事前に看守から「日渡賢二」という名前を聞いていなければ、自分の父親だと認識出来なかったかもしれない。賢二が年齢よりも老けて見えるのは、グッと下がった目尻の端から大きなシワがいくつも刻まれているからだろうか。
「すみませんでした」
 面会室の椅子に座る前に、グレーのスウェットを着用した加奈が頭を深く下げた。
「何が」
 賢二はゆっくりと返事をしながら、少し口角を上げた。
「大人になったなぁ」
 にっかりと口を開け、ハハッと力なく笑う。
「こんなところで言うような事じゃないか」
 賢二は椅子に腰をかけながら加奈の方に少し顔を近づけた。
 取り澄ますように笑う賢二をアクリル板越しに見る。加奈は喉の奥に異物がギュッと張り付いているような感覚を覚えた。

 賢二と加奈の住まいはさほど離れていない。それなのに、加奈が賢二の前にほとんど顔を見せる事がなくなったのは、母である真琴の面影を探してしまう自分を、もうやめにしたかったからだった。
 小学校四年生の夏、真琴は急に加奈の前から姿を消した。真っ白な肌に細い身体の、弱い人だった。元々なぜか家を留守にする事が多かったので、しばらく九州の実家に帰るという母の話を、加奈はすっかり信じ込んでいた。大好きだった母が家にいないのはもちろん寂しかったけれど、まさかそのまま帰ってこないなんて、小学四年生だった加奈に想像出来るわけがなかった。
 大丈夫。そう言いながら加奈の頬をふんわりと撫でる、それが母の最後の姿だった。
 この頃から加奈は周りに嘘をつくようになっていった。「自宅に母がいる」という普通の子供なら当たり前の日常が、加奈にとっては嘘になってしまった。嘘をついているという自覚は全くなかった。いずれ母は帰って来ると思っていたし、帰って来た時はこうだろうな、という想像を口にしただけだった。
 小学生の加奈にとって、学校生活は世界の全てだった。誰かに羨ましがられるような存在になりたかったわけではない。惨めな自分にならないという事に必死なだけだった。
 母が姿を消してから二ヶ月程後の事だった。加奈は初潮を迎えた。それは同級生の中でも早い方で、誰にどういう風に相談をしていいかわからなかった。下着を血で汚しながら、母はいつ帰って来るのだと、窓の向こうを眺めた。
 最初は経血が少なかったので、トイレットペーパーを綺麗に折りたたんで下着の真ん中に敷いておけば何とかなった。こうしている間に母が帰ってくればいい、加奈はそう思っていた。けれど三日目の夜、酷くお腹が痛くなった。我慢が出来なくなり初めて賢二に相談したところ、驚いた賢二に病院に連れて行かれそうになった。事情を説明している間、加奈は自分の身体からタラタラと血が流れ出ていくのを感じた。
 初めての感覚と、どうして今母は自分の目の前にいないのだという事実に、発狂しそうだった。惨めで仕方がないと思った。
「お腹が痛い、普通じゃないかもしれない」
 ほとんど泣きながら訴える加奈の二の腕を、賢二は両手で擦った。力強い、ガサツな手だった。心配で擦ってくれているのだろうけれど、力が強すぎて心地良くはない。
「母さん、ちゃんと帰って来るから。ごめん」
 賢二はたどたどしいフォローをした後、急いでコンビニで生理用品を買って来てくれた。
 ビニール袋に入った生理用品を見た時、安堵で涙がいくつも零れた。それ以降、生理用品の買い出しはいつも加奈が自分で行った。生理でお腹が痛い時は、解熱鎮痛剤を飲むと良いというのは、最寄りの薬局の薬剤師さんが教えてくれた。
 今になって思い返せば「母さんはちゃんと帰って来る」という言葉は、賢二なりの優しい嘘だった。けれどその優しい嘘のせいで、加奈はいつまでも母の帰りを待つことになった。
 何度も、母が家に帰って来る夢を見た。夢を見た日は目が覚めると身体が重くて、天井がグルグルと回って落ちてくるような感覚に陥った。涙がポロポロと零れ落ち、手足が冷たく感じる。それでももう、母が加奈の頬を撫でてくれることはなかった。
 決定的に、もう二度と母に会えないと思う衝撃的な出来事というのはなかった。日々の生活の中でジワジワと染み込んでいくように、いつの間にか「母はもう戻らない」と思うようになっていった。
 ずっと信じていた母の人間性が加奈の中で壊れていったのは、優が生まれてからだった。育児について熱心になればなる程、加奈の思う母親と現実の母親との乖離は大きくなっていった。
 優が使う水筒を用意していると、ふいに思い出す。加奈が保育園の時に毎日持たされていた水筒はいつも茶渋がついていて、きちんと洗われていなかった事を。同級生の綺麗に洗われた水筒を見た時、恥ずかしくてたまらなかった。それに気づいてから加奈は、時折自分で水筒を洗っていた。中まで洗うにはどうしたらいいか、友達に聞いても解決はしなかった。友達は誰も自分で水筒を洗っていなかった。
 生活していると、こんな風に些細な出来事を振り返る事が、多くある。加奈が子育てをする側に立って知識をつけるにつれて、少しずつ違和感が広がっていく。
 母について、しっかりと考えてしまっては、自分自身が壊れてしまう。そう思ってからは実家に帰れなくなった。いつの間にか、母がいなくなってから父と二人で過ごした年数の方が長くなっていたのに。
 賢二に会いたくなかったわけではない。現実を直視して母の呪いがなくなってしまっては、いつか自分も母のように優の元を去ってしまうのではないかと、怖かったのだ。
「すみませんでした」
 もう一度、加奈は謝罪の言葉を口にした。何に対して謝っているのか自分でもよくわからなかった。けれど頭の中に、言葉はもうそれだけしか残っていない。
 賢二は困ったように笑った。誰も座っていない隣の椅子には、無骨なボストンバッグが置いてある。ファスナーが壊れて、ところどころポリエステルの表面が剥げている。中には、土まみれの金時人参がスーパーのビニール袋に包まれて乱雑に入っていた。
 賢二は金時人参を包んだビニール袋を、おもむろにアクリル板の前まで持ち上げた。
「これ、最近お父さんが作ったんだよ。加奈に食べさせようと思ったんだけど、どうもダメだったみたいで、そんな事知らなくてな」
 加奈はジッと黙ったままだった。
「すまんかったなぁ」
 息をスウッと吐き出し、賢二が頭を下げた。
「加奈には寂しい思いをさせたからなぁ。すまんかったなぁ。申し訳ないとずっと思っていたんだよ。謝るのに、こんなに時間がかかってしまった。こんな事になるまで声をかける事も出来なかった」
 頭を下げた賢二の肩は、最後に会った時よりもずっと小さくなっていた。加奈は目の奥に涙が溜まっていくのを感じた。
「それでも謝れる日が来たから良かった。加奈が生きていてくれて良かったよ。本当にすまなかった」
 賢二は頭をポリポリとかいている。
「何回謝るのよ」
 やっと出てきた加奈の言葉は震えて、綺麗な形にならなかった。涙は頬を伝って、待合室の床に零れ落ちていった。
「加奈が生きている事が、一番いい。本当に、そう思う」
 賢二が繰り返すその言葉は、アクリル板を越えて加奈の耳の奥までしっかりと届いた。加奈は目線を少し落とし、返す言葉を探している。身体の奥がシンと冷たくなった。賢二がまた口を開く。
「何故だかここに来る時、授業参観に行った時の事を思い出したんだ。一回きりしか行けなかったけど、よく覚えている。国語の授業で問題が出てね。加奈が誰よりも早く手を挙げて先生に指されて、あれは嬉しかったなぁ。子供が賢いというのは、親の誇りなんだよ」
 加奈は視線を落としたまま静かに賢二の話を聞いていた。
「だけどね、手を挙げた時に見えた長袖の長さが足りていなくてね。服を買ってあげないといけないなぁって思ったんだ。それまで、気が付かなかったんだよ。母さんがいないという事がどういう事なのか、わかってなかったんだ」
 加奈は賢二の言葉に息を飲んだ。賢二がそのような思いを抱えていた事は知らなかった。小学生の頃、特段着飾っていた訳ではないが長さの足りていない服を着ていたような記憶もない。
 母に代わって賢二が初めて授業参観に来た日、加奈は賢二の事を恥ずかしいと思った。
 母親ではない事、周囲の保護者に比べて年を取っている事、頭が半分以上白髪になっている事、作業服で学校に入って来た事。小学生の加奈にとって、賢二の行動は何もかもが琴線に障った。
加奈は賢二を強く批判する事はなかったが、「無理しなくていいよ」というような事を伝えた気がする。以来加奈の授業参観に賢二が参加する事はなくなった。悲しいようなせいせいしたような、よくわからない感情を持ったのを覚えている。
 ひとつの出来事に対し、親子でもここまで乖離があるのだ。加奈はほんの少しだけ笑いが込み上げた。
「気にしてなかったよ」
 加奈の言葉に、賢二が笑った。
「優君は、元気にしてるみたいだぞ。弁護士先生に会って来たんだ」
 賢二の口から優の名前を聞いた瞬間、加奈の心臓がドクンと大きく脈を打った。けれどどうしてか平静を装って、静かに頷いた。
 面会時間はおよそ十分。賢二は、これからの事や事件については、何も言わなかった。ただ一つ、最後に「また来るね」とだけ、言葉を残した。

 ここに来てすぐの頃は、優の事を思う度に胸が張り裂けるように苦しかった。どういう訳か胃痛がおさまらず、眠れない日々が続いた。胃痛を看守に訴えると医師から胃薬を処方して貰えたが、全く持って効果がなかった。更にそれは優の事を考えている時に極端に痛むという事に気付いた時、呼吸が浅くなっていくのを感じた。ある程度どうなるか予測は出来ていたつもりだったが、こんなにも優の事が心配になるとは自分でも思わなかった。
 色々と難しい子だからどこに行ってもトラブルは起きてしまうだろうけど、その時に心の拠り所がないと不安になるのではないか。もしかしたら、何でもすぐに忘れてしまうあの子だから、私の事もすっかり忘れてしまっているかもしれない。いっそ、そうなってくれたらいいとも思う。そうして生きていく方が、きっとこの先楽になれる、そんな風に考えたりした。
 二年程前、優が自転車事故を起こして認知症の女性を死なせてしまった事がある。坂道を猛スピードで下って行って、運悪く女性と衝突したらしい。加奈は親権者の監督責任という事で五千万円もの慰謝料を要求された。更に女性の義理の息子と名乗る男性に、酷く罵倒される事となった。知らせを聞いた時は目の前にフィルターがかかって、うまく状況を理解できなかった。アクリルガラスに包まれて、水族館の魚になってしまったような感覚に陥った。水の中では、音がうまく聞き取れない。優はどこか遠いところに行ってしまったような、そんな気がした。
 ようやくしっかりと現実を理解した時は、こちらも死んでしまいたいくらい悲しかった。けれど、一人の人間が自分のせいで死ぬという出来事があったなら、狂おしい程苦悶する日々は当たり前とも思える。苦しまなければならない状況というものが、この世に存在するのだ。
 貯金を下ろして保険を解約して、借りられるだけ借り入れをしても、慰謝料には全然足りなかった。水の中でもがきながら、それでも必死にお金を作らなくてはいけない。どんな時も、自分は人の命を奪った人間なのだという罪を背負って、本当は食事をする事も、眠ることも許されていない。そう思いながら生きる事が、もう帰らない命への唯一の贖罪だった。
 慰謝料を一千万円弱程支払い終わった頃、加奈は疲弊しきっていた。それだけのお金を用意しなくてはいけないという現実はもちろん、事件から起因する苦悶を延々と続ける事は心身を蝕んだ。それはやがて希死念慮へと繋がった。
 もう二度と同じ事が起きないよう、自転車に乗る事はもちろん、その他の危険な行為も絶対にしないよう優に繰り返し伝えた。人の命の重さについては、毎日欠かさずに何かしらの形でアプローチするようにしていた。
 加奈の話を聞いている際、優は「ごめんなさい」と何度も口にする。「ごめんなさい」と同じリズムで太ももに爪を立て、強く傷跡を残す癖がついた。けれど加奈が期待するような言葉が出てきた事は、一度もない。爪を立てる自傷癖を除くと、優はほとんど以前と変わらない生活態度で暮らしている。自分が引き起こした事の大きさを理解できず、それどころか何も変わらずにルール違反や反抗を繰り返す姿は、まるで加奈に嫌がらせをするために神から遣わされた使者のようだった。
 しかし事態は突如、思わぬ方向へと走り出した。被害女性の娘と名乗る人物が自宅へやって来たのだ。出会って五分も経たないうちに急いで話をしようとする姿に、加奈は少なからず不安を覚えた。
 急ぎながらも落ち着いた様子の女性は、握った両手をジッと見つめている。何かを吐き出すように出てきた言葉たちは、不規則に小さく揺れていた。
「わかっていたんです。母が、怪我をするかもしれない事。もしかすると、死んでしまうかもしれない事も。だから、あの事故は優君だけが悪いんじゃないんです。私の、責任なんです。もう、お金は受け取れません」
 突然、慰謝料の受け取りを拒否され告げられた言葉に、加奈は倒れそうになった。あまりの衝撃に、後頭部をガツンと鈍器で殴られたような痛みが走る。
 その時加奈は、これまでの自分の思いや行動を誰かが見ているに違いないと思った。
 優には小学校にあがったのと同時に自転車を買い与えた。本人が欲しいと言った事と、加奈自身同じ時期に自転車を買い与えて貰った記憶があったからだった。
 優は自転車に乗るのがあまり上手ではなかった。その為加奈は、何度も運転について注意をしなければならなかった。踏切で追い越し運転をして車にクラクションを鳴らされる、並走運転でフラフラとジグザグ走行をする、大きな段差に突っ込んで行ってタイヤをパンクさせる。そんな事は日常茶飯事だった。
 しっかり注意していつも見張っていなくてはと、加奈は思っていた。けれど何度注意をしても、優の身勝手で危険な運転は改善されない。自分が見ていないところでの優はもっと酷いのかもしれない。そして、見えないところでの優の動きは抑える事が出来ない。それはもう母親でもコントロールのつかない事だった。やがて、注意をする事自体がなくなって行った。
 加奈は、優が死んでしまっても仕方がないと思っていた。そう思っていた矢先に、あの事件が起きた。
 優を疎ましく思う気持ちを、神様が目ざとく見つけ出し、同じ気持ちの者同士を引き合わせたのだ。

「江本加奈さま」
 賢二の来訪から数日後、手紙が届いた。看守から受け取った封筒に書いてあったのは、見覚えのある文字だった。加奈は少しだけ動揺した。高校を卒業して以来顔を合わせていない友人からの手紙だった。
 何年も会っていない友人が、今の自分に何の用事があるのだろう、わずかな不安がよぎる。
 今の加奈の生活は、同じことの繰り返しだ。取り調べ以外は自分自身と向き合う時間が無限にある。
 けれど何度も考えた末に起きた現実に対して、加奈は抗うつもりはなかった。とにかく早く時間が過ぎるよう日々願っている人間に、外部からの情報は刺激が強い。ただでさえ不安定な精神状態を更に悪化させることのないよう、大きく深呼吸してから封筒の中身を取り出した。
 仲が良い友人の一人だった栞は事件の事を知り、どうやってかあれこれと調べてくれたらしい。手紙には、万由子が萌絵のブログを見つけて過去の記事を遡った事や、優の担任の青柳孝弘と連絡を取っている事などが書かれていた。
 こんなきっかけで萌絵と万由子、栞の三人が集まるなんて不思議な感じだと加奈は思った。仲が良いように見えて、実際には高校を卒業して四人で集まった事なんか一度もない。上辺だけの付き合いをしたつもりはなかったが、少し寂しく感じていた事を思い出した。
 栞はあまりアクティブな印象のない友人だと思っていたが、考えてみれば高校生の時も、何かと加奈の真似をしてイメージチェンジをはかっていた。一年生の時、何の気なしに持っていた髪飾りをあげたことがあった。栞はそれを、季節をまたいで髪の毛をしっかりと伸ばしてから使っていた。あまりのいじらしさに胸の奥がキュンと鳴ったのを覚えている。性格は大人しくて気持ちの優しい子だったけれど、思い立ったら真っ直ぐに行動をしてしまう、それは加奈の記憶の中の栞の姿だった。
 今も変わらずに、栞は真っ直ぐ生きているらしい。手紙の文字から栞の真っ直ぐさが溢れている。それは、自分が置かれている状況とは関係なく加奈を温かい気持ちにさせた。
—孝弘先生って、いい先生ですね。
 特にこの一文には、栞の優しい性格がよく表れていると加奈は思った。加奈は孝弘から来る連絡を、本当に煩わしいと感じていた。電話のコール音を聞くと頭痛がする時期さえあった。孝弘は、週に何度も些細な事で電話をかけてきては、優の出来ていないことを逐一報告する。ただでさえ優に手を取られる事が多い生活を送っているのに、何故いちいちどうでもいいような事を言う必要があるのか加奈は不思議だった。宿題が出来ていないとか、提出物が出せていないとか、いずれも気に留めるようなことではない話ばかりだったように思う。
 勉強に関して出来ない事ならまだしも、喧嘩した友達に謝れなかったと報告された時は、思わず言い返してしまった。
「優はその日のうちに気持ちを切り替えて謝れる子ではないと思います。落ち着いた時にまた話をするんじゃないですか。思春期なんですよ」
 全て本心のつもりだったが、孝弘からの回答は加奈にとって胸を衝くものだった。
「思春期だからって、こんなに暴れ回るものですか? ご自宅でストレスが溜まっているんじゃないですか?」
 この時加奈は、初めてこれが嫌がらせの電話なのだと気付いた。手のかかる生徒を持ってしまった事で被る害を、孝弘は全て加奈のせいにしたいのだろうと感じた。そう思うと、後頭部がズキンズキンと波を打つように痛む。
 電話を切った後、無意識に電話線を引き抜いた。当たり前ではあるが、しばらくの間電話は鳴らなくなった。
 それから二週間ほど経った頃、優のランドセルの中に加奈宛の手紙が入っていた。中学生のような不安定な字で書かれた「連絡をください」という言葉を見て、加奈は無意識の内に持っていた手紙をバラバラに破り捨てた。
 孝弘は優に何を話したのだろう。栞は孝弘から何を聞いたのだろう。加奈にはもう想像する力が残っていない。ただ、栞が加奈に今でも寄り添ってくれようとしている事は、わかる。

 栞の手紙に、返事は出せない。
 萌絵と夫の関係が、高校時代から続いていたというのは知らなかった。それを聞いて、萌絵の底の浅さに改めて笑いが出る。
 最初に夫の浮気を見つけたのは、携帯電話の中身を見てしまったからだった。それまで一度も携帯電話を覗いた事なんてなかったのに、その時なぜか導かれるように見てしまった。その頃既に夫との間には、ズレが生じていると感じていた。にも関わらず、携帯を持つ手はガタガタと震えた。浮気をされたという事実よりも、自分がないがしろにされているという現実が耐え難かった。
 夫は会社のメールアドレスを使って二人分の旅行の予約をしていた。二人で旅行に行くような友人がいない事は知っていたので、すぐにピンと来た。質問をすると、夫は意外にもあっさりと浮気を認めた。拍子抜けしつつも正直に浮気について話す夫を見ていると、宇宙人か何か異質な世界の生き物のように思えてきた。
 いくつかの質問を投げかけた後、旅行のキャンセルを促した。これにも夫はあっさりと同意した。けれどその後もまだ続きの質問を待っているかのように、ジッとこちらを見ている。真ん丸に見開いた夫の目を見ると、頭がどうにかなりそうだった。次に夫が何かを喋り出しそうになる前にと、無意識のうちに夫の口に両手を当てようとした。その時何故か夫の口元が緩んでいた事を覚えている。震える手は、夫ではなく自分自身の口を塞いだ。これ以上深く追求してしまうと、もう二度とまともな結婚生活に戻れなくなるような気がした。
 それ以来、何度もフラッシュバックに襲われた。夕飯の用意をするために鶏肉を切っていても、友人と楽しくお喋りをしている時でも、突然に夫の浮気という事実は頭に浮かんでくる。旅館のサイトURLと一緒に、「楽しみだね」と書いてあった言葉が、何度も頭をグルグルと回った。なぜ句点がないのだろうと、どうでもいい事が何日も経った後に気になったりした。夫が優に対してでも、「楽しみだね」という言葉を使っていると、頭が燃え滾るように沸騰していく。けれど夫は、私がどんなに泣いていても、狂うように怒っていても、あっけらかんとした様子だった。人間ではなく、冷たいガラスと一緒にいるような気分だった。
 別れを選ぶか散々迷って、結局一緒に生きていく事を選んだ。これは愛情というよりも執着に近かった。以降、夫に話しかける事はほとんどなくなっていった。
 後になってその相手が萌絵だと気付いた時は、夫に対する愛情どころか、執着すらもほとんど残ってなかった。なぜ萌絵だと気付いたのか自分でもよくわからなかったけれど、高校時代から続く関係だったという事実を聞いた今、萌絵が何かしら仕掛けたのではないかと思う。「柊二」という男性の名前をよく聞くようになったのも、この頃からだった。
――私は、事実は必ずしも見るべきものではないと思っていた。いずれの場合も、直視するメリットがあまりに少ない。母親の事も、夫の事も、友人の事も、息子の事も、しっかり全てを見てしまってはいけない。見てしまったら最後、もう二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。
 萌絵が私の夫を柊二と呼んでいる事も、私が夫を誠也と呼んでいる事も、忌々しいこの日々が全て虚像であるという事の証明のようだった。
 それも思い返してみれば、萌絵に母親と同じ名前を呼びにくいというような事を相談した際「別の名前で呼んでみたら」とアドバイスされたからだった。私の人生でたった一人、母の存在についての事実を知る他人は萌絵しかいなかったのだ。
 私を追いかけるように虚像を重ねる萌絵。私たちは、似た者同士だったのかもしれない。
 けれどいくら虚像を積み上げても、事実はジワジワと身体に染み込んでいった。何も見ていなかったはずの私はいつの間にか、痺れを切らせた萌絵がいつか夫を殺してくれればいいと願うようになっていた。そして、実際にその通りになった。萌絵が優の部屋を出入りするようになった頃、私の頭の中には予感めいたものがあった。
 私の罪を未必の故意と呼ぶらしい。私は、萌絵が優を唆し、やがて夫が死ぬであろうという事をずっと以前から知っていた。

私は、逃げたかったのだ、夫から。
逃げたかったのだ、優から。
私を捨てた、母のように。

『マザー・コンプレックス』完。

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第一章【漆の汁椀とマヨネーズ】
第二章【ママの書置き】
第三章【泥棒のいる家】
第四章【ベビーブルー】
第五章【クレプトマニア】
第六章【二人のマコト】
第七章【私のアドニス】
最終章【マザーコンプレックス】

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ichinooikawa
編集・ライター・ステップファミリー・ホームパーティーマニア。猫と夫と息子と娘。20時以降は飲酒している。夫と漫画が大好き。