子育ての時間はあっという間に過ぎる、なんて言う人は、定型発達の子どもを育てているのだろうか。わたしは息子との日々を、とてもそうは思えない。あまりにも長く苦しい義務教育だったと思う。
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息子が中学校を卒業した。
彼が、「髪の毛を切りに行きたい」と話したのは卒業式の一週間前だった。「いってくるね」と言い、ひとりで美容室へと出かけた。
その晩わたしはひとりで泣いた。息子の成長が、というより、自身の責任をようやく果たしたような気持ちだったか。あぁ、やっとここまでたどり着いた、疲れた。よくがんばった。
息子が発達障害ではないかと気づいたのは、彼が小学二年生の頃だった。それまで一度も発達の遅延や特性を指摘されたことはなく、また、障害に対する知識もなかったわたしは『発達障害』という言葉にたどり着くことにすら時間がかかった。一年生のときの担任の先生に聞いてみても「発達障害というほどではない」と言われた。
もしかして「普通」かもしれない。わたしの思い込みで彼を発達障害にしてはいけない。当初はこんなことも考えていた。しかし、発達テストの数値は年々下がっていった。
子育ては常に自身の怒りとの闘いだった。子の父親に対する怒り、そのまた両親に対する怒り、はたまた日本や世間、未来、神さまへの怒りだったこともある。とめどない怒りは、後から後から沸いてきた。
発達障害という言葉さえなければ。
学校さえなければ。
わたしと息子だけの世界があれば。
わたしたちはこんなに苦しむ必要なんてないのに。
発達障害には、療育(発達支援)と通院がつきものだ。通う場所の多さもさることながら、学校生活や学童でのトラブルも次々に起きる。一日たりとも支援を休めない。会社勤めなど到底できるはずもなく、フリーランスのシングルマザーだったわたしは、必要に迫られて会社を作ることになった。若い内に自分が倒れても誰かが仕事を回し続けるシステムを作っておかないと、子がいつか野垂れ死ぬと思った。
なんだかもうよくわからない、勢いに任せてがむしゃらに走り抜けた日々だった。
そのうちに、7年間「普通級がいい」と言い続けた息子が「特別支援級にいく」と言った。彼なりに時間をかけて、障害に対する自己理解を進めたのだった。
「普通」だと思っていた自分が「障害を持っている」と言われ「それを受け入れ、支援を受けて生きて」なんて、気持ちを整理するまで、どれだけ孤独で悲しかったことかと思う。
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親としてできることは精一杯やったつもりだが、正解はまだ出ていない。おそらくわたしが生きているうちに正解が出ることはないだろう。
しかし、誰に向けていいかわからない怒りがようやく寛解してきた。それは「突然楽になった!」というような衝撃的なものではなかった。「あれ、わたし今息子の将来について悲観していないな。彼ならきっと大丈夫だろうな」と、いつの間にか思えるようになっていた。
息子は将来「同じ仕事を毎日繰り返して、夜はゲームをしたい」と言った。
彼の大切な夢だ。
彼の大切な未来に、理解と、優しさがありますよう。
彼がいつも彼らしく、健やかでありますよう。
中学校卒業おめでとう。
進学、おめでとう。
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あとわたし、超おつかれさま!!!!!!